今のお歌の旧《もと》つ辞《ごと》を申しあげませう。此はお聞き知りにならぬ昔語りで御座る。だが、姫様にも深い図《かゝは》りのあることえ。心を静めてお聴きにならねばなりませぬ。
飛鳥の都に、 日のみ子様に近く侍つた高い御身分の方がいらせられました。近江の大津の宮の内に成人なされて、唐土の学問にも詣《いた》り深くおありになりました。此国で、詩《からうた》をはじめて作られたのは、大友皇子様か、其ともお方かと申し伝へて居るほどで御座ります。
近江の都は離れ、飛鳥の都が再栄えました頃、どうしたお心得違ひか、 日のみ子さまに弓を引くやうな企みをなされると言ふ噂が立ちました。
高天原広野姫尊《たかまのはらひろぬひめのみこと》様が、お怒りをお発しになりまして、とう/\池上の堤に引き出してお討たせになりました。
其お方がお死にの際《きは》に、深く/\思ひこまれた一人のお人が御座りまする。耳面刀自《みゝものとじ》と申す大織冠のお娘御の事で御座ります。前から深くお思ひになつて居たと云ふでもありません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の方が、愈|池上《いけがみ》の草の上で、お死になされると言ふことを聞いて、一目見てなごり惜しみがしたくてこらへられなくなりました。藤原から池上まで、おひろひでお出でになりました。小高い紫の一むらある中から、御様子を窺うて帰らうとなさいました。其時ちらりと、かのお人の最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に残る執心となつたので御座りまする。
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もゝつたふ 磐余《いはれ》ノ池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
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この思ひがけない心残りを、お詠みになつた歌だと、私ども当麻《たぎま》の語部では、伝へて居ります。その耳面刀自と申すのは、淡海公の妹君、姫様方の祖父《おほぢ》君|南家《なんけ》太政《だいじやう》大臣には、叔母様にお当りになつてゞ御座りまする。人間の執念と言ふものは怖いものとは思ひになりませんか。
其亡き骸は、大和の国を守らせよと言ふ御諚で、此山の上、河内から来る当麻路《たぎまぢ》の脇にお埋けになりました。其が何《なん》と此世の悪心も何もかも忘れ果てゝ清々《すが/\》しい心になりながら、唯そればかり一念となつて、残つて居る
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