ぬに日月を語ることは、極めて聡い人の事として居た頃である。愈魂をとり戻されたのかなと、瞻《まも》り乍らはら/\して居る乳母であつた。
唯、郎女は又秋分の日の近づいて来て居ることを、心にと言ふよりは、身の内にそく/\と感じ初めて居たのである。蓮は、池のも、田居のも、極度に長《た》けて、莟の大きくふくらんだのも見え出した。婢女《めやつこ》は、今が刈りしほだと教へたので、若人たちは皆手も足も泥にして、又一日二日、田に立ち暮した。
十二
彼岸中日 秋分の夕。朝曇り後晴れて、海のやうに深碧に凪いだ空に、昼過ぎて白い雲が頻りにちぎれ/\に飛んだ。其が門渡《とわた》る船と見えてゐる内に、暴風《あらし》である。空は愈青澄み、昏くなる頃には、藍の様に色濃くなつて行つた。見あげる山の端は、横雲の空のやうに、茜色に輝いて居る。
大山颪。木の葉も、枝も、顔に吹き飛ばされる物は、皆活きて青かつた。板屋は吹きあげられさうに、きしみ揺めいた。
若人たちは、悉く郎女の廬に上つて、刀自を中に心を一つにして、ひしと寄つた。たゞ互の顔が見えるばかりの緊張した気持ちの間に、刻々に移つて行く風。
西から真正面《まとも》に吹き颪したのが、暫らくして北の方から落して来た。やがて、風は山を離れて、平野の方から、山に向つてひた吹きに吹きつけた。峰の松原も、空様《そらざま》に枝を掻き上げられた様になつて、悲鳴を続けた。谷から尾の上に生え上つて居る。萱原は、一様に上へ/\と糶《せ》り昇るやうに、葉裏を返して扱《こ》き上げられた。
家の中は、もう暗くなつた。だがまだ見える庭先の明りは、黄にかつきりと物の一つ/\を鮮やかに見せて居た。
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郎女様が――。
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誰かの声である。皆頭の毛が上へのぼる程、ぎよつとした。其が何だと言はれないでも、すべての心が一度に了解して居た。言ひ難い恐怖にかみづつた女たちには、声を出す一人も居なかつた。
身狭[#(ノ)]乳母は、今の今まで、姫の側に寄つて、後から姫を抱へて居たのである。皆の人のけはひで、覚め難い夢から覚めたやうに目を見ひらくと、あゝ、何時の間にか、姫は嫗の両《もろ》腕両膝の間から抜けて居させられぬ。一時に慟哭するやうな感激が来た。だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。凜として反り返る様な力が湧き上つた。
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