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ぢやがどうも、お聴き及びのことゝ思ふが、家出の前まで、阿弥陀経の千部写経をして居たと言ふし、楽毅論から、兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習したらしいし、まだ/\孝経なども、習うたと見えるし、なか/\の女博士《をなごはかせ》での。楚辞や小説にうき身をやつす身や、お身は近よれぬはなう。――どうして其だけの女子《をみなご》が、神隠しなどに逢はうかい。
第一、場処が当麻で見つかつたと言ひますからの――。
併し其は、藤原に全く縁のない処でもない。天[#(ノ)]二上の寿詞《よごと》もある処だが……。斎《いつ》き姫《ひめ》もいや、人の妻と呼ばれるのもいや――で、尼になる気を起したのでないかと思ひ当ると、もう不安で不安でなう。のどかな気持ちばかりでも居られぬは――。
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仲麻呂の眉は集つて来て、皺一つよらない美しい、この中老の貴人《あてびと》の顔も、思ひなしくすんで見えた。
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何しろ、嫋女《ひわやめ》は、国の宝ぢやでなう。出来ることなら、人の物にはせず、神の物にしたいところよ。――ところが、人間の高望《たかのぞ》みは、さうばかりも辛抱しては居りはせぬがい――。何せ、むざ/″\尼寺へやる訣にいかぬ。
でもねえ。一人出家すれば、と云ふ詞が、この頃頻りに説かれるで……。
九族が天に生じて、何になるといふのぢや。実は何百人かゝつても作り出せるものではない。どだい[#「どだい」に傍点]兄公殿《あにきどの》が、少し仏|凝《ご》りが過ぎるでなう――。自然|内《うち》うらまで、そんな気風がしみこむやうになつたかも知れぬぞ。時に、お身のみ館の郎女も、そんな育てはしてあるまいな。其では久須麻呂が泣きを見るからねえ。
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人の悪いからかひ笑みを浮べて、話を無理にでも脇に釣り出さうとするのは、考へるのも切ないことが察せられる。
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兄公は氏上に、身は氏助《うぢのすけ》と言ふ訣でゐるが、肝腎斎き姫で枚岡に居させられる叔母御は、もうよい年ぢや。去年春日祭りに上られた姿を見て、神《かん》さびたものよと思うたよ。今《も》一代此方から進ぜないなら、斎き姫になる娘の多い北家の方が、すぐに取つて替つて氏上に据るは。
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兵部大輔にとつても、此だけは他事《ひとごと》ではなかつた。おなじ
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