最古日本の女性生活の根柢
折口信夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)語部《かたりべ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神|憑《がか》り

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)大汝《おおなむち》[#(ノ)]命《みこと》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
−−

     一 万葉びと――琉球人

 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人に神|憑《がか》りした神の、物語った叙事詩から生れてきたのである。いわば夢語りとも言うべき部分の多い伝えの、世を経て後、筆録せられたものに過ぎない。日本の歴史は、語部《かたりべ》と言われた、村々国々の神の物語を伝誦する職業団体の人々の口頭に、久しく保存せられていた律文が、最初の形であった。これを散文化して、文字に記したのが、古事記・日本紀その他の書物に残る古代史なのである。だから成立の始めから、宗教に関係している。神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。並みの女のように見えている女性の伝説も、よく見てゆくと、きっと皆神事に与《あずか》った女性の、神事以外の生活をとり扱うているのであった。事実において、我々が溯《さかのぼ》れる限りの古代に実在した女性の生活は、一生涯あるいはある期間は、かならず巫女として費されてきたものと見てよい。してみれば、古代史に見えた女性の事蹟に、宗教の匂いの豊かな理由も知れることである。女として神事に与らなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
 私はいわゆる有史以後奈良朝以前の日本人を、万葉人《マンネフビト》と言い慣《ならわ》してきた。万葉集はほぼ、日本民族が国家意識を出しかけた時代から、その観念の確立したころまでの人々の内生活の記録とも見るべきものである。この期間の人々を、精神生活の方面から見た時の呼び名として、恰好《かっこう》なものと信じている。古事記・日本紀・風土記の記述は、万葉人の生活ならびに、若干は、それ以前の時代の外生活に触れている。ここに万葉集を註釈とし、さらにいま一つ生きた註釈を利用する便宜が与えられている。
 万葉人の時代には以前ともに携えて移動してきた同民族の落ちこぼれとして、途中の島々に定住した南島の人々を、すでに異郷人と考えだしていた。その南島定住者の後《のち》なる沖縄諸島の人々の間の、現在亡びかけている民間伝承によって、わが万葉人あるいはそれ以前の生活を窺うことのできるのは、実際もっけの幸とも言うべき、日本の学者にのみ与えられた恩賚《おんらい》である。沖縄人は、百中の九十九までは支那人の末ではない。我々の祖先と手を分つようになったころの姿を、今に多く伝えている。万葉人が現に生きて、琉球諸島の上に、万葉生活を、大正の今日、我々の前に再現してくれているわけなのだ。

     二 君主――巫女

 大化の改新の一つの大きな目的は、政教分離にあった。そう言うよりは、教権を奪うことが、政権をもとりあげることになるというところに目をつけたのが、この計画者の識見のすぐれていたことを見せている。
 村の大きなもの、郡の広さで国と称した地方豪族の根拠地が、数えきれないほどあった。国と言うと、国郡制定以後の国と紛れやすいゆえ、いまこれを村と言うておこう。村々の君主は、しだいに強い村の君主に従えられてゆき、村々は大きな村の下に併合せられていって、大きな村の称する国名が、村々をも籠《こ》めてしまうことになった。秋津洲《あきつしま》・磯城島《しきしま》と倭《やまと》、みな大和平原における大きな村の名であった。他の村々の君主も、大体において、おなじような信仰組織を持って、村を統《す》べていた。倭宮廷の勢力が、村々の上に張ってくると、事大の心持ちから、自然にいよいよ似よったものになってきたであろう。
 村の君主は国造《くにのみやつこ》と称せられた。後になるほど、政権の含蓄がこの語《ことば》に乏しくなって、教権の存在を感じるようになっていったようである。国造と称することを禁じ、村の君主の後をすべて郡領《こおりのみやつこ》と呼びかえさせ、一地方官吏とみなすことになっても、なお私《ひそ》かに国造と称するものが多かった。平安朝になっても、政権に関係なく、村々の君主の祀った神を、子孫として祀っている者には、国造の称号を黙認していたようである。出雲国造・紀国造・宗像《ムナカタ》国造などの類である。倭宮廷でも、天子自ら神主として、神に仕えられた。村々の君主も、神主として信仰的に村々に、勢力を持っていたのである。
 神主の厳格な用語例は、主席神職であって、神の代理とも、象徴ともなることのできる者であった。神主と国造とは、ほとんど同じ意義に使われていることも多いくらいである。村の神の威力を行使することのできる者が、君主として、村人に臨んだのである。村の君主の血縁の女、娘・妹・叔母などいう類の人々が、国造と国造の神との間に介在して、神意を聞いて、君主のために、村および村人の生活を保つさまざまの方法を授けた。その高級巫女の下に、多数の采女《ウネメ》という下級巫女がいた。
 この組織は、倭宮廷にも備《そなわ》っていた。神主なる天子の下に、神に接近して生活する斎女王《いつきのみこ》といふ高級巫女が、天子の近親から択《えら》ばれた。伊勢の斎宮に対して、後世賀茂の斎院のできたことからみれば、本来は主神に仕える皇族女子のほかにも、有力な神に接する女王の巫女があったことは考えられる。そうしてこの下に、天子の召使とも見える采女《ウネメ》がいた。宮廷の采女は、郡領の娘を徴《め》して、ある期間宮廷に立ち廻らせられたものである。采女は単に召使のように考えているのは誤りで、実は国造における采女同様、宮廷神に仕え、兼ねてその象徴なる顕神《アキツカミ》の天子に仕えるのである。采女として天子の倖寵《こうちょう》を蒙ったものもある。これは神としての資格においてあったことである。采女は、神以外には触れることを禁ぜられていたものである。
 同じ組織の国造の采女の存在、その貞操問題が、平安朝の初めになると、宮廷から否定せられている。これは、元来なかった制度を、模倣したと言わぬばかりの論達であるが、実は宮廷の権威に拘《かかわ》ると見たためであろう。このことは、日本古代に初夜権の実在した証拠になるのである。村々の君主の家として祀る神のほかにも、村人が一家の間で祀らねばならぬ神があった。庶物にくっついて常在する神、時を定めて来臨する神などは、家々の女性が祀ることになっていた。
 これらの女性が、処女であることを原則とするのはもちろんであるが、それは早く破れて、現に夫のない女は、処女と同格と見た。しかもそれは二人以上の夫には会わなかったものという条件があったようである。それがさらに頽《くず》れて、現に妻として夫を持っている者にも、巫女の資格は認められていたと見える。「神の嫁」として、神にできるだけ接近してゆくのが、この人々の為事《しごと》であるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である。斎女王も、処女を原則としたが、なかには寡婦を用いたこともある。
 しかし、このいま一つ前の形はどうであろう。村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。魏志倭人伝の邪馬台《ヤマト》国の君主|卑弥呼《ヒミコ》は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功《じんぐう》皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、日本紀を見れば知られることである。万葉人の時代でも、女帝にはことに、宗教的色彩が濃いようである。喜田博士が発見せられた女帝を中天皇《ナカツスメラミコト》(万葉には中皇命)と言うのも、博士の解説のように男帝への中継ぎの天子という意でなく、宮廷神と天子との中間に立つ一種のすめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]の意味らしくある。古事記・日本紀には天子の性別についても、古いところでは判然せない点がある。そういうところは、すべて男性と考えやすいのであるが、中天皇の原形なる女帝がなお多くあらせられたのではあるまいか。
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王同様の為事をして、聞得大君《キコエウフキミ》(ちふいぢん)と言うた。尚《しょう》家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下に当るのろ[#「のろ」に傍線](祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神に事《つか》える女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴《ほうふつ》させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。

     三 女軍

 万葉および万葉以前の女性とさえ言えば、すぐれて早く恋を知り、口迅《くちど》に秀歌を詠んだもののように考えられてきている。しかしこれとてもやはり、伝説化せられたものに過ぎなかったのである。佳人才女の事蹟を伝えたのは、その女性自身の作と伝えながら、実は語部の叙事詩それ自身が、生み出した性格でもあり、作物でもあった。つまりは物語や、それから游離した歌謡の上にのみ、情知り訣《わけ》知りらしく伝わったので、後世から憧れるほどのものでなかったのである。ただ、ことの神事に関する限り、著しく女性としての権威を顕し、社会的にも活動したのは事実である。神の意思を宣伝し、神の力を負うて号令する巫女の勢力が、極度に発揮せられるのである。
 近江・藤原の宮のころから禁じられだしたが、なお、その行きわたらなかった地方には、存していたろうと思われるのは、女子の従軍である。昔から学者は軍旅の慰めに、家妻を伴うたものと解している。もっとも、この法令の出たころは、女と戦争との交渉について、記憶が薄らいでいたものであろう。戦争における巫女の位置というようなことを考えると、巫女にして豪族の妻なる者の従軍は、巫女であるがためといふ中心点より、妻なるがためという方へ、移っていっていたのである。
 日本武尊《やまとたけるのみこと》の軍におられた橘媛《たちばなひめ》などは、妻としての従軍と考えられなくもない。崇神天皇の時に叛《そむ》いた建埴安彦《タケハニヤスヒコ》の妻|安田《アダ》媛は、夫を助けて、一方の軍勢を指揮した。名高い上毛野形名《かみつけぬのかたな》の妻も、その働きぶりを見ると、単に「堀川夜討」の際の静御前と一つには見られない、やはり女軍の将であったらしい。調伊企儺《ツキノイキナ》の妻|大葉子《オホバコ》も神憑りする女として、部将として従軍して、俘《とりこ》になったものと考えられる。神功皇后などは明らかに、高級巫女なるがゆえに、君主とも、総大将ともなられたのである。
 女が軍隊に号令するのに、二つの形がある。全軍の将としての場合と、一部隊の頭目としての時とがそれである。巫女にして君主といった場合は、もちろん前の場合であろうが、軍将の妻なる巫女の場合には、後の形をとったことと思われる。
 神武天皇の大和の宇陀《うだ》を伐《う》たれた際には、敵の兄磯城《エシキ》・弟磯城《オトシキ》の側にも、天皇の方にも、男軍《ヲイクサ》・女軍《メイクサ》が編成せられていた。「いくさ」という語の古い用語例は軍人・軍隊という意である。軍勢に硬軟の区別を立てて、軍備えをするわけもないから、優形《やさがた》の軍隊といったふうの譬喩表現と見る
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング