者の様子から推すと、人形其物も、可なり身軽くおどけふるまうたと見えるのである。
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祭礼のだし人形[#「だし人形」に傍線]の類は、決して近世の案出ではない。すべて祭り屋台の類はほこ[#「ほこ」に傍線]・やま[#「やま」に傍線]・だし[#「だし」に傍線]・だんじり[#「だんじり」に傍線]など、みな平安朝まであつた「標《ヘウ》の山《ヤマ》」と、元一つの考へから出て居る。平安朝初期に、既に「標の山」の上に蓬莱山を作り、仙人の形を据ゑた。「標の山」は神の天降《アモ》る所であつて、其を曳いて祭場に神を迎へるといふ考へなのだ。此作り山は、神物のしるしなるたぶう[#「たぶう」に傍線]の物を結ぶと共に、神の形代《カタシロ》を据ゑるといふ考へもあつたのである。「標の山」は恐らく木の葉で装うた作り山で、神を迎へる為にした古代からの儀礼の一つである(出雲風土記)。其作り山の意義は固より、上に据ゑた人形の存在理由は早く忘れられて了うた。
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道教出と思はれる仙人形が、字面のとほり、人形と見られるなら、奈良朝の盛時には既にあつて、恐らく此も玩具ではなく、方士の祀つたものであらうと思ふ。藤原・奈良、及び平安の初期に亘つて行はれた仙人の内容は、艶美であつて、人間の男との邂逅を待つて居る仙女なども這入つて居たのである。後世のぼろをさげた様な仙人ばかりではなかつた。「標の山」は本義を忘れられて、装飾に仙山を作り、天子の寿を賀する意を含めたものであらう。平安朝にはじまつた意匠でないと思はれる所の、人形を此に据ゑると言ふ事は、原義の明らかだつた時代には、神の形代であつたらうと思はれるのである。

     三 新しいほかひ[#「ほかひ」に傍線]の詞

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石[#(ノ)]上|布留《フル》の大人《ミコト》は、嫋女《タワヤメ》の眩惑《マドヒ》によりて、馬じもの縄とりつけ、畜《シヽ》じもの弓矢|囲《カク》みて、大君の御令畏《ミコトカシコ》み、天離《アマサカ》る鄙辺《ヒナベ》に罷《マカ》る。ふるころも真土の山ゆ還り来ぬかも(石上乙麻呂卿配土左国之時歌三首並短歌の中、万葉巻六)
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土佐に配せられた時の歌とあるばかりで、誰の歌ともない。普通の書き方の例から見ると、此は「時人之歌」とでもあるべき筈である。でなければ、古義などの様に、前二首を「乙麻呂の妻(又、相手方久米[#(ノ)]若売とも見てよからう)の歌」、後二首を「乙麻呂の歌」と言ふ風に、註があるべきである。まづ巻一の「麻続王流於伊勢国伊良虞島之時人哀傷作歌」と同様に扱ふのが正しからう。さうすると、言ひ出しの文句のよそ/\しさも納得がつく。布留・石上は、極《ごく》近所だから、又石上氏・布留氏共に物部の複姓《コウヂ》で、同族でもあるから、かう言うたものとも考へられるが、併し布留氏は別にれつき[#「れつき」に傍点]として存して居るのだから、かうした表現を採る訣がない。やはり枕詞を利用して、石上氏をきかし、聯想の近い為に、却つて暗示が直ちに受けとれ相な布留を出して、名高い事件の主人公を匂はしたのは、偶然に出来たのであらうが、賢い為方である。此が、身の近い者の作でない最初の証拠だ。「嫋女のまどひ」も、物語の形を継いだ叙事脈の物でなくては、言ふ必要のない興味である。次には、地名の配置が変な点である。此歌で見ると、真土山を越えて行くことを見せて居る。ところが三番目の歌では、河内境の懼《カシコ》の阪と言ふのを越す様にある。さうして、住吉の神に参るのが順路だから、第二の歌に出て来る住吉の社も、唯遥拝する事を示すのではないと思はれる。さうすると、矛盾が考へられる。四番目の短歌には、どこの国にもある所の大崎といふ地名を出して居る。此も紀伊だと限つて説くのは、横車を押す態度である。ちぐはぐな点が、此歌の当事者の贈答でない事を露して居るのだ。
土佐へ渡るのに、紀伊へ出るのは、順路ではない。紀の川口から真直に阿波の方へ寄せて、浜伝ひ磯伝ひに土佐へ向ふ事もないとは言はれぬが、当時の路筋はやはり、難波か住吉へ出たものである。どちらにしても、順路にくひ違ひのある事は事実である。
巡遊伶人があり来りの叙事詩をほかひ[#「ほかひ」に傍線]して居るうちに、段々出て来た自然の変形が、人の噂に尚《なほ》身に沁む話として語られて、而も歴史の領分に入りかけた時分になると、記憶の混乱が、由緒の忘れられた古い叙事詩の一部を、近世の悲恋を謡うたものと感じる様になり、無意識の修正が、愈《いよいよ》其事実に対する妥当性を加へて来る事になる。言ひ出しの文句などは、此事件との交渉のなかつた前は、他の人名であつた事が考へられる。叙事詩・伝説の主人公の名ほど、変り易いものはないからである。
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古事記の倭建《ヤマトタケル》の臨終の思邦《クニシヌビ》歌が、日本紀では、景行天皇の筑紫巡幸中の作となつて居り、豊後風土記(尚少し疑ひのある書物だが)にも同様にある。此はほんの一例に過ぎない。
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時と処とに連れて、妥当性を自由に拡げてゆくのが、民間伝承の中、殊に言語伝承の上に多く見える事がらである。此なども、木梨[#(ノ)]軽皇子型の叙事詩の一変形と見てさし支へないものなのである。いつたい、軽皇子物語が、一種の貴種流離譚なので、其前の形がまだあつたのだ。神の鎮座に到るまでの、漂泊を物語る形に、恋の彩どりを豊かに加へ、原因に想到し、人間としての結末をつけて、歴史上の真実のやうな姿をとるに到つた。だから、叙事詩の拗れが、無限に歴史を複雑にする。更に考へを進めると、続日本紀以後の国史に記されて居る史実と考へられて居る事も、史官の日次記や、若干の根本史料ばかりで、伝説の記録や、支那稗史をまねた当時の民間説話の漢文書きなどを用ゐなかつたとは言はれない。
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最大きな一例を挙げると、楚辞や、晋唐時代の稗史類には、民間説話を其まゝ記録した、神仙と人間との性欲的交渉を一人称や三人称で記したものが数多くある。其が人間界の仙宮と言うてよい宮廷方面にまで拡つて来て、帝王と神女の間を靡爛した筆で叙《の》べるばかりか、帝王と後宮の人々との上にまで及ぼして、愛欲の無何有郷を細やかに、誘惑的に描写して居る。
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元々空想の所産でなく、民間説話の記録なのであるから、小説と言ふ名も出来たのだ。「小」は庶民・市井などの意に冠する語で、官を「大」とする対照である。説は説話・伝説の意である。
小説・稗史は、だから一つ物で、民間に伝はる誤謬のある事の予期出来る歴史的伝承と言ふ事になる。史官の編纂した物を重んじ過ぎるからさうなつたのだが、段々史実の叙述以外に空想のまじる事を無意識ながら、筆者自身も意識する事になつた。其処で伝奇と言ふ名が、ようろつぱ[#「ようろつぱ」に傍線]の羅馬治下の国の所謂ろうまんす[#「ろうまんす」に傍線]を持つて、地方々々の伝説を記したろうまんす[#「ろうまんす」に傍線]なる小説と、成立から内容までが、似よりを持つて来る様になつた次第である。
既に遊仙窟だけは確かに奈良朝に渡つて来て居て、其を模倣した文章さへ万葉(巻五)には見えて居るが、其外にもなかつたとは言へない。高麗・日本の人々が入唐すると、必、張文成の門に行つて、書き物を請ひ受けて帰つた(唐書)と言ふことは、宋玉一派の爛熟した楚辞類は元より、神仙秘伝・宮廷隠事の伝説を記録した稗史類を顧みなかつたと言ふ事にはならぬ。寧、其方面の書籍が、沢山輸入せられた事を裏書きするものと言へると思ふ。其上に帰化人が生きた儘の伝承を将来してゐる。而も、世界の民族は、民間伝承の上にある点までの一致を持たないものがない。日本と支那との間にも、驚くばかりの類似が、其頃段々発見せられて来た。飛鳥の末・藤原の宮時代の人々の心に、先進国の伝承と一致すると言ふ事が、どんなに晴れやかな気持ちをさせた事であらう。



底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「日光 第一巻第三・五・七号」
   1924(大正13)年6、8、10月
※底本の題名の下に書かれている「大正十三年六・八・十月「日光」第一巻第三・五・七号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:野口英司、門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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