惑させる神には限らない様である。此点が明らかでないと、人形は、触穢《ソクヱ》の観念から出たものとばかり考へられさうである。
人形を恐れる地方は今もある。畏敬と触穢と両方から来る感情が、まだ辺鄙には残つて居るのである。文楽座などの、人形を舞はす芸人が、人形に対して生き物の様な感触のあるものと感じて居るのは事実である。沖縄本島に念仏者《ニンブチヤア》と言ふ、平民以下に見られてゐる人々が居る。春は胸に懸けた小さな箱――てら[#「てら」に傍線]と言ふ。社殿・寺院・辻堂の類を籠めて言ふ語《ことば》。人形の舞台を神聖な神事の場と見るのである――の中で、人形を舞はしながら、京太郎《チヤンダラ》と言ふ日本《ヤマト》人に関した物語を謡うて、島中を廻つたものである。其人形は久しく使はぬ為に、四肢のわかれも知れぬ程になつたが、非常にとり扱ひに怖ぢてゐた。此人形に不思議な事が度々あつたと言ふ。
人形が古代になかつたと言ふ様な、漠とした気分を起させる原因は、其最初の製作と演技が、聖徳太子・秦《ハタ》[#(ノ)]河勝《カハカツ》に附会せられて居る為である。仮面は殊に、外国伝来以後の物の様な感じが深いが、此とて日本
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