に傍線]と、熊野巫覡の霊感とが、聖《ヒジリ》階級の念仏衆の信仰・行儀に結びついたのだ。熊野巫女や熊野の琵琶弾きは、何時までも、信者の多い東国・奥州へ出かけて、念仏式な「物語」を語つた。義経記《ギケイキ》は、盲僧の手にかゝつて、一種の念仏式説経となり、瞽巫女《ゴゼ》や歌占巫女の霊感は、曾我物語を為《シ》あげて、まづ関の東で、地盤を固めた。曾我物語は、熊野信仰の一分派と見られる箱根・伊豆山二所を根拠とする、瞽巫女の団体の口から、語りひろげられ、語りつがれたものらしいのである。
義経記及び曾我物語は、此ら盲巫覡の幻想の口頭に現れ始めた物語で、元は、定本のなかつたものと見てよい。此二つの物語の主人公の、若くして寃屈《ゑんくつ》の最期を遂げた霊気懺悔念仏の意味から出たもので、其物語られる詞は、義経や、曾我兄弟の自ら告げたものであるから、邪気・怨霊・執念の、其等若武家には及ばぬものを、直ちに退散させるものとの信仰もあつたのであらう。
生霊・死霊の区別の明らかでない古代に、謡ひ物のとはず語りから得る実感は、語り手を曲中の人物と考へる癖が伝つて居た。後には主人公自身でなく、其親近の人の、始めて語つた物であり、同時に目前に現れて物語つてゐると言ふ錯覚が起つた。即、義経記では生き残つた常陸房海尊、曾我物語では虎御前と考へたらしい。最初の語り手から受けついだ形が転じて、生き存《ナガラ》へた人の目撃談、とりも直さず、其神に仕へる巫覡が伝宣する姿に移して考へる様になつたのだ。
室町時代に、京に上つて来たといふ若狭の八百比丘尼なども、念仏比丘尼の上のさうした論理の投影した長寿信仰であつたのであらう。さうしておもしろいのは、常陸房にも、八百比丘尼にも、一个処懺悔の俤《おもかげ》を残してゐることだ。比丘尼は人魚の肉を盗み喰うた事、海尊は主従討ち死の時に居あはさなかつた事を悔いて居る。
不老不死の霊物を盗んで、永生する説話は到る処にあるが、比丘尼の場合は、長寿の原因を言ふ必要がないのであつた。此はさんげ[#「さんげ」に傍線]の形式に入れた証拠だ。「五十年忌歌念仏」には、お夏自身、亡夫の妹と、念仏比丘尼となつて廻国する処で書き収めてある。念仏の一つの特徴である。又、西沢一風は姫路で、お夏のなれのはてといふ茶屋の婆を見たと書いてゐる。お夏は実在したかどうかも分らぬもので、熊野聖の笠を歌うた小唄をとり込ん
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