山伏しから転じて陰陽師となり、其資格で神職となつたのが多い。かういふ風に変化自在であつた。山伏しの唱文を、陰陽師式に祭文と称へた理由も明らかである。陰陽師の禊祓の代りに、懺悔の形式をとつて、罪穢を去るのである。「山伏し祭文」は、江戸になつて現れて来るが、事実もつと早くから行はれたに違ひない。先達代つて、罪穢を懺悔すれば、多くの人々の罪障・触穢・災禍が消滅すると考へるのである。身の罪業を告白すると言ふ形式が、芸術化して来たのである。
室町時代の小説類に多い「さんげ物」は勿論だが、江戸の謡ひ物の祭文は「山伏し祭文」から出て、ある人の罪業告白の自叙伝式の物になり、再転して「色さんげ」から、故人の恋愛生活などを言ひ立てることになつた。錫杖《しやくぢやう》と法螺《ほら》とを伴奏楽器とした。唱文は家の鎮斎を主として、家を脅すもの、作物を荒す物などを叱る詞章であつた。其くづれの祭文が、くどき[#「くどき」に傍線]めいたものであつた。其傾向が、他の条件と結合した。
さんげ[#「さんげ」に傍線]物語は山伏しの祭文以外にも、高野其他の念仏聖或は熊野比丘尼などの自身の半生を物語る様な形で唱へた身代りさんげ・菩提すゝめの懺悔文から影響せられてゐる様だ。寧、山伏しは祭文のおどけ[#「おどけ」に傍線]に富んだ処へ、男女念仏衆のさんげ[#「さんげ」に傍線]種を、とり込んだのであらう。さうして、もつと明るく、浮き立つ様なものにしたのではないか。色祭文・歌祭文など、皆ちよぼくれ[#「ちよぼくれ」に傍線]となり、あほだら経[#「あほだら経」に傍線]となるだけの素地を見せて居た。祭文には「さんげ念仏」と共通のさんげ[#「さんげ」に傍線]の語句があつた。さうした処から次第に念仏に歩みより、遂には、山伏しの手を離れて、祭文語りの側に移つたらしい。
歌比丘尼は、悪道苦患の掛軸を携へて、業報の贖《あがな》ひ切れぬ事を諭す絵《ヱ》解きを主として居た。其が段々変化して、石女《ウマズメ》の堕ちる血の池地獄のあり様、女の死霊の逆に宙を踏んで詣る妙宝山の様などをも謡ふ様になつた。
其に対して、歌順礼は、主として成年戒得受以前に死んだ者の受ける悩みを、叙事詩や、短詩形の短歌で謡うた。此は熊野の歌占巫女《ウタウラミコ》から胚胎したのであらう。三十三所の順礼歌の最後が「谷汲」であり、さんげ念仏[#「さんげ念仏」に傍線]の小栗転
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