出て来るいとし[#「いとし」に傍線]と言ふ言葉、我々の使つてゐるおいとしい[#「おいとしい」に傍線]と言ふ言葉、と同じ意味に、多く使つてゐる。つまり、いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ形が、いたはし[#「いたはし」に傍線]と言ふ形から影響を受けて、そつちの方に引張られて行つた、つまり、いたむ[#「いたむ」に傍線]を語根にした言葉に惹かれて行つたのです。それで、同じ時代の言葉でも、いたはし[#「いたはし」に傍線]といとほし[#「いとほし」に傍線]と、同義語が並んでゐる訣です。この様に、いたはし[#「いたはし」に傍線]と言ふ様な意味に引張られて、いとし[#「いとし」に傍線]と言ふ意味に使はれる一方には、いとはし[#「いとはし」に傍線]と言ふ言葉と同じ様に嫌だと言ふ時にも使つてをるのです。けれどもしまひには、だん/\時代が進むと言ふと、いとはしい、嫌だと言ふ意味はなくなつてしまつて、第二義の方にずつと這入つて行つてしまふ。併し、平安朝で見ますと、第一義が嫌だと言ふ意味なのか、第二義か第三義か知りませんが、兎に角、引きずられてゐる言葉、外の方にかぶれて、引きずられて行つた言葉が、いとしい[#「いとしい」に傍線]と言ふやうな意味ですから、さうすると同じ言葉であるけれども、さう言ふ風に意味が変つて行くんです。ですから、どうもその間に調和を求めまして、嫌だと言ふ意味と、いとしい[#「いとしい」に傍線]と言ふ意味との中間を歩くやうなものが、物語や日記等に沢山出てゐる。それを我々が今日見ますと言ふと、いとしいとも釈けるし、嫌だ、嫌ひだとも釈けるのですけれども、昔の人はその間の考へ方と言ふものを、見つけてゐたんです。つまり、さう言ふ言葉が使はれてゐる時代が過ぎ去つて、忘れられてしまふと言ふと、もう、さう言ふことは考へられぬのと同じ事です。我々が書物を持たなくても、幸にその言葉の出来た時分に我々が生きてをつたら、さう言つた言葉ははつきりしてをりますね。
このうちでも、私共とそんなに年齢の変らないお方は御記憶でせう、譬へば、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉です。今ははいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は賞める言葉ですね。今では、もだあん[#「もだあん」に傍線]・すまあと[#「すまあと」に傍線]・しいく[#「しいく」に傍線]などゝ言ふ言葉であらはしてゐて、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は、使はなくなつたかも知れませんが、又私共もさう使つてはゐませんが、すまあと[#「すまあと」に傍線]とかもだあん[#「もだあん」に傍線]とか言ふ言葉は、我々の生活内容には余り這入つて来ない。それだけ貧弱な生活をしてゐるんだけれども、又それだけ安易な生活もしてゐる訣ですね。それで、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は御存じの通り、只今でも生きてをられる竹越三叉さんや、先年亡くなられた望月小太郎さん、あの人々が洋行帰りで、高いからあ[#「からあ」に傍線]をつけて、きいろい声で演説をしたのを新聞記者が悪《にく》んだ。きざな奴だと、日本新聞ではいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉を言ひ出して――日本新聞で言ひ出したのでなく、宛て字を日本新聞でしだしたのかも知れません――兎に角新聞記者が、からあ[#「からあ」に傍線]の高い奴と言ふのではいから[#「はいから」に傍線]と言ふ名前をつけた。そして、鼻持ちのならないと言ふ意味の言葉として、日本新聞で「灰の殻」と宛て字をした。侮蔑しきつた宛て字ですね。今は一つも使ひませんが、その頃使はれてゐたはいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は、襟が高いと言ふ意味のはい・からあ[#「はい・からあ」に傍線]を、「灰殻」と宛て字を書いてもいゝやうな、さう言ふ内容をもつて来てをつたのでせう。それで「灰の殻」として、しきりに使はれてをりましたが、その灰殻と言ふ記号をば飛越えて飛躍し、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉が、非常に使はれ行はれて来ました。さうしてそのはいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉も、だん/\良い内容を持つて来て、つまり、鼻持ちのならぬきざな奴、むしづの走る奴などゝ言ふ意味が、遂にはだん/\なくなつて来たのでせう。そして、我々が昔からもつてゐた考へ方を、又復活させて来たのです。
戦国の終りから江戸の始めにかけて申したあのかぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ言葉、それから六法《ロツパウ》、かんかつ[#「かんかつ」に傍線]などゝ、色々な言葉がありますね。その時代々々に依つて、少しづゝ意味は変つて来るけれども、兎に角、近代的で、乱暴で、而もえろちっく[#「えろちっく」に傍線]で、刺戟の強いものを表す言葉になつたのでせう。併し、時々さう言ふ考へだけが、型を落してしまつて浮動してゐる事があるんで
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