ニタヽシテ》」と言ふ文句があるのです。高千穂の峯に来られた時の事で、日本紀では、だいぶ合理化されて書かれてゐる様です。つまり、ふわ/\した処に降りて来られた事にして、書いてゐるらしいのです。一番自分達の感じに近い様に、「浮渚《ウキニマ》り平なる処に立たして」と書いてあります。さう書いた処で訣らないのですが、日本紀にはまう一つ又別の、又古事記にも別の伝へがある。兎も角、これは諺だつたのです。それ等がさう言ふやうに覚えられてをつた。何故か訣らぬけれども、兎に角、昔から覚えてをつた。だから、失ふことの出来ないもので、伝へてをつた。伝へてはをつたけれども訣らないから、だん/\変つて行き、幾重にも伝へが変つて来る。
ところが、そんなものばかりではありません。諺も、必ず、一つの問題を含んでゐると言ふ形のものが出来て来る。常陸風土記で見ると、諺は多くは枕詞です。つまり、その地方で言ひ伝へてゐる重要な言葉と言ふことらしい。ところがその時分の京都の方では、全体にさう考へてをつたか訣らぬけれども、古事記や日本紀を通じて見ますと、まう少し違つて、一種の落し話の前形みたいな形をもつて来てゐる。
ある名高い話ですが、仁賢天皇の時の事、高麗に日鷹の吉士をお遣しになつた後、難波で女が泣いてゐた。この女は日鷹の吉士の妻なのですが、「於母亦兄《オモニモセ》、於吾亦兄《アレニモセ》、弱草吾夫※[#「りっしんべん+可」、279−27]怜《ワカクサアガツマハヤ》」(仁賢紀)と言つて泣いてゐた。この意味はお母さんにも兄さんだし、私にも兄さんだし、さうして私の亭主だ、と言ふ事でせう。それで「母《オモ》にもせ[#「せ」に丸傍点]、我にもせ[#「せ」に丸傍点]、若草我つまはや」と言つて泣いてゐる。それでは訣らないが、それを訣るやうに、「秋葱《アキギ》のいやふたごもりを思ふべし」と説明した、と書いてあります。あきゞ[#「あきゞ」に傍線]と言ふのは今何に当りますか、秋になると出る蒜とか葱とかの類でせうか。あきゞ[#「あきゞ」に傍線]は中を割つて見ると、たま[#「たま」に傍線]が幾つも這入つてゐる。ふたごもり[#「ふたごもり」に傍線]と言ふ事は「ともに」と言ふ事です。非常に幾つも/\這入つてゐる。あれを考へたら訣るではないか、と言ふ事で、「秋葱のいやふたごもりを思ふべし」と言ふ事は、これも一つの伝へ言葉だと思ひます。日
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