植ゑの後、夜、さなぶり[#「さなぶり」に傍線]を行ふのが普通である。早苗饗応だと言ふ説の当否はとにかく、田植ゑに臨んだ神々を、賓客として開いた饗宴の遺風なのは、事実である。植ゑ初めから、植ゑ了ふまでの間は、群神は村に居て、夜行する故、此間は居籠りを守つてゐる。夜の、外出はきびしく忌んだのである。神逗留の間はまつり[#「まつり」に傍線]と言ふには当らない。神が能動的にふるまひ、人は水口祭り以外には、神に向つてする事がないからである。
さなぶり[#「さなぶり」に傍線]の饗宴は、果して古くからあつたものであらうか。神の行ふべき行事は、悉く田遊びで尽きてゐるのだから、此さなぶり[#「さなぶり」に傍線]は、田植ゑに必須条件ではなかつたらしい。唯この夜、家々の男は悉く外に出て、処女或は巫女の資格ある女が、協同作業《ユヒ》の斎屋《イミヤ》――或は個々の家――に待ち申して、此|客人《マレビト》をもてなす事が行はれたらしい。此が、陰陽道の五月の端午の節供に習合せられたのであつた。世間で男の節供と言ひながら、此夜に限つて、家々を女の家と言ひ習して来た――女殺油地獄の中――のは、男の物忌みで家に居ぬ日だつたからである。殊に少青年の行動は戒めねばならぬ様であつた。
端午の節の斎戒は、男が守らねばならなかつた為、男の節供として、人形《ヒトガタ》を据ゑて穢邪を移し、又ゆきあひまつり[#「ゆきあひまつり」に傍線](交叉期の祭り)の考へから出た邪鬼――夜行神の恐れが転じて――の来襲を防ぐ備へをする日になつた。併し、五月幟の類は、一つは田植ゑに来訪する神を迎へる招《ヲ》ぎ代《シロ》なる青山(標の山の類)の変化でもあり、又神人たるべき若者の、神意によつて、指された住む家の目あてになるものらしい。つまりは、斎居《イモヰ》の宿のしるし[#「しるし」に傍線]から拡つたのである。
我が国では、ある時代から、多く四五月の間を、成年戒・成女戒を村の青年処女に授ける時期とする様になつたらしい。成年戒を授かつた後の男子は、忌み日として外に集つて居籠るのではなく、神人の一人として、群行神の一人に扮して、女の家に訪れて行く資格を得るのである。
       男になつたしるし[#「しるし」に傍線]
古代には、成年戒を授かるのは、初春よりも、此五月の夜に多かつたらしい。中部・西部諸国に亘つてある或神の氏子の男のしるしの曲つて
前へ 次へ
全15ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング