対に、実生活に移されたり、実生活様式と合一したりした物なる事を考へねばならぬ。殊に、其生活から、庶民の生活を抜き出す事の出来ぬ、高級神人・巫女の上に限つた伝承である事は、勿論である。伝承に出る至上階級の行動も、神・人の区別がない。だから、人の世の事と思へば、神話であつたりする。草刈り・野焼きの歌なども、すべて経験から出てゐるとは言へない。歌論の上の慣例を追うたに止る事の多い事を思ふべきだ。
此歌の捉へ処のない様に見えるのは、或は既に、神の真言化して考へられ、呪文とせられてゐたのかも知れぬ。
[#ここから2字下げ]
天なる ひめ菅原の茅な刈りそね。みなのわた かぐろき髪に 芥し着くも(万葉巻七)
[#ここで字下げ終わり]
譬へば、此歌なども、叙事詩から断篇化した歌らしい。軽[#(ノ)]大郎女を憐んだ歌だらうと言ふ人もある程だ。処が、此旋頭歌は、呪文に使はれたものと見る方がよさゝうだ。すると「おもしろき」も野焼きの火に過ちなき様になど言ふ原義を没した用途を持つてゐたのかも知れぬ。
[#ここから2字下げ]
妹なろが つかふ川門《カハト》のさゝら荻《ヲギ》 あしとひと言《コト》 語りよらしも(万葉巻十四)
[#ここで字下げ終わり]
東歌では此なども、おなじ種類らしく思へる。
さて、ふり返つて、此歌の謡はれ、又記録せられた理由を纏めよう。文学的な繊細さで、知られた物と見るか、性生活の期待を豊かに感じさせる為か、或は又、其意義から退化して、呪文として用ゐられて来たものか。かうして見ると、最初の問題は、大分はつきりして来た。
東歌の悉くが、採集者や、万葉集編纂者に、必しも訣つてゐたものでない事は、明らかである。だから、此方面、即鑑賞法を問題にする必要はない。東人等が、ともに興味を持ち得たであらうか。其等の追窮を試みたいのである。
今の処私は、やはり第二説である。「わが立ち隠るべき、おもしろの野を焼くな。野はふる草まじり新草生ひて、寝好《ネヨ》げに見ゆるを」と、かう説いて姑《しばら》く私の考への、更に熟するのを待ちたいのである。
四
[#ここから2字下げ]
雨障《アマヅヽミ》常する君は、久方のきのふの雨に、懲りにけむかも(万葉巻四)
笠なしと 人にはいひて、雨乍見《アマヅヽミ》 とまりし君が 容儀《スガタ》し おもほゆ(万葉巻十一)
……とぶとりの 飛鳥壮《アスカヲト
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング