した、といふ様な想像も亦可能である。だから、一概に、昔の人には訣つたらうけれども、我々には無力で訣らぬのだ、とのみ信じこむのも間違ひである。万葉人にも、自分たちに訣らぬ事を、訣らぬまゝ正直に書き込んでゐる、といふ事がかなりあつたに違ひない。古い註釈家は、其点を少しも考慮に入れなかつたが、我々には其を知る事が新しい出発――正しい進み方を促してくれるのである。
以上のことから結着する処を、大体こんな風に考へてよいと思ふ。つまり訣らぬ文章を、そのまゝ訣らぬ文章として嵌め込んだのと、訣る文章を主とし、訣らぬものは、之に応じて変へてゆくといふ仕方とである。此事情は祝詞などを見ると、よく訣ると思ふ。祝詞は、真淵などは、崇神朝に出来たものもあると言つてゐるが、其証拠は不確かである。其が崇神朝に出来てゐても、或は近江朝に出来てゐても、問題は、其が出来た当時のまゝで伝来せられて、果して今の我々に訣るかどうかといふ事だ。千年以上も経過して、尚今日の我々に其が訣るといふならば、その方が、成立年代などよりは、よほど大きい問題である。大祓祝詞などは、近江朝に出来たものだと言はれるが、一部分々々の、ごく特殊なものゝ不明は別として、大体、其がそのまゝで、今の我々に訣るといふのは、をかしい事で、神代巻に現れる種々な超現実的な不思議よりは、この方がよつぽど不思議でなければならぬ。つまりは、其は、後々の人に訣らぬ様では困る故に、ある点までは改作して、訣らせよう/\として来たからの事に他ならぬ。延喜式などでも、延喜以前の貞観・弘仁頃の記録もあつたらうが、その間には改作が行はれてゐるに違ひない。若しさうでなかつたならば、今の我々に到底、訣る筈がない。訣らせようとする為の改作は、必要に応じて始中終行はれて来たが、其がある時代に止つて了つて、改作しなくなつた。其後は純然たるくらしつく[#「くらしつく」に傍点]になつて、以来、訣らないまゝに伝はつて来てゐるといふ訣であらう。かうした改作は、物に書くことに依つて行はれるばかりではなく、口頭伝承の間にも、だん/\と改めて行つてゐる様だ。だが本来、神に関係ありとせられる箇所だけは、勝手に変改しては神罰が恐ろしいから、之を改めない為に、そこだけが時を経るに従つて、無暗に訣らなくなつて了ふ。当初から之だけは、訣る様にといふ目的を持たなかつたのだ。かりに原《モト》の古詞章を直線状のものとして置けば、途中に訣らなくなつた箇所の出て来るまゝ、改作し/\して、結局は波状線の様な、瘤のある文章になる訣だが、必要に応じての、必然的な改作なのだから、原《モト》の文章も、改作した文章も同じだと思つて居る。それは一つには、昔から言葉の威力を信じたので、(1)が神聖ならば、同様に、(N)も神聖なものだ、と考へてゐるからのことでもあつた。――――[#「――――」に「原詞章」の注記](1)―・―・―[#「―・―・―」に「・訣らぬ所」の注記](2)※[#「ジグザグの線」、311−11](3)〜〜〜〜(N)かういつた瘤のある文章が、今ある祝詞だとは思はぬが、ともかくも、よほど原詞章とは変つて来てゐるに違ひない。同じ延喜式の中でも、平安朝に出来た、宮廷の簡単なものと、古いものとを比較してみると、大体の文章は同じで、古いものには、所々に難しい古い文章詞句が入つてゐる、といふだけの相違である。つまり、瘤状を為してゐる部分と、直線の部分とが、我々には考へられる訣だが、当時の人には、此相違は相違でなかつたのである。
とにかく、古詞章は出来るだけ、訣る様にしようと考へ、又、実際にさうして来てもゐるので、昔のものを読んで見ても、我々の予期する程は、古い言葉・古い文章には出会はない。記紀を見ても、我々の知らぬ様な事ばつかり書いてあるのかと思つてゐると、案外なのに愕ろくくらゐで、つまりは、本道の古詞章が、さうした古典にもだん/\亡くなつて来て居る。既に奈良朝の人々に訣る程度に、改められて来てゐるのであつて、其なら我々にも理会し易いといふ事になる。而も、其に加へて漢文の助けがある。漢文脈に縋つて表現してゐるので、大体の事は訣つてゆくのだ。
だから、此話をだん/\進めてゆくと、我々の古く持つてゐた文章が、純然たる口語であつたといふ時代は、決して考へられぬ。即、昔からある言葉を土台として、この文章が出来て居り、其文章の最肝要な所が古語で、其周囲に訣ることをつけ足してゆく。かういふ現象を考へてみると、先づ、我々が人に話す口言葉は、その喋つた当座に消えて了ひ、書いたものは何時までも残つてゆくが、昔はこの両者の中間に、もう一つ、記憶せられる言葉といふものがあつた。単なる口の言葉は記憶せられず、又、書く言葉の方は、よほど文化が進んでから後のことである。とにかく、口言葉ではなくて、記憶せられなければならぬ、といふ言葉乃至は文章があつた。是は勿論、其時に出来たものではなく、昔から伝はつてゐる詞句で、前代の伝承として、後代にも其を伝へるべく、どうしても記憶してゆかねばならぬものだ。人々の間に生きてゐる言葉といふものは、どん/\変化してゆくが、之とは亦別に、変化しない、固定した詞章を覚えてゆく一群の職業者がある。神事に従ふ人・まじっく[#「まじっく」に傍点]を施す人、詞章の種類性質によつて、その伝承者は違ふけれども、とにかく古詞章を記憶し、其を伝へてゆく団体が幾つもあつた。是が次第に亡びてゆく様になると、伝承者は高貴の生活をしてゐる人の上に移つてゆく。尊族・貴族の方々は、殆ど神に近い生活をされてゐるから、さうした神聖な詞章が伝承してゆかれる訣で、さうした家柄の子弟の教育は、かゝる古い詞章を覚えることであり、此教育は平安朝まで続いた。かうして、次第に神事に関係ない者に、神聖なる詞章が伝承されてゆくことになる。是が所謂、ことわざ[#「ことわざ」に傍点]といふもので、句又は短い文章である。何の為に之を伝へたかは、はつきりは訣らない。或は昔からのもの、神聖なものだから、として伝へたものであつたらうかとは思ふが、それにたつた一つだけの意味を考へてみよう。
三
古くから伝承してゐる詞句には、国のすぴりっと[#「すぴりっと」に傍点]が宿つてゐる――国の威力が籠つてゐると信じた。だから其国の重要な位置にある人は、必ず之を受け伝へなければ、威力がなくなつて了ふ。その為に、どうしても、この古詞章は覚えなければならなかつたのだ。かうして伝承されたものがことわざ[#「ことわざ」に傍点]で、その一部分がうた[#「うた」に傍点]である。ことわざ[#「ことわざ」に傍点]は、大抵は、もとは讃詞《ホメコトバ》である。讃詞は、現状を讃美するのが本旨ではなくて、さうなつてくれゝばいゝといふことを、相手たるすぴりっと[#「すぴりっと」に傍点]に言ひ聞かせる、すると精霊は、其発せられた詞章に責任を感ずる――客観的に言へば、言葉の威力によつて、相手をちやーむ[#「ちやーむ」に傍点]させる――即ち、言葉に感染させることだ。かうした讃詞は、従つて、国のことか、神か乃至は神に近い生活をするもの、譬へば領主などに関するものが多いのは当然である。国と言ひ、神といふのも、結局は一つで、土地の領主を讃めるといふことは、その土地の神を讃めるのと同じ効果と結果とを持つ。とにかく、正面から現実を讃めてゐるといふのは少ない。「豊葦原[#(ノ)]瑞穂[#(ノ)]国」といふのも、決して、米の豊かに稔る楽土であることを讃め称へたのではない。「この国はお米がよく出来るんだぞ」と、土地の精霊[#「精霊」に傍点]に言つて聞かせた言葉であつた。さう言つて置けば、此言葉通りの国になる事が出来る、といふ信仰だ。常陸風土記には、それが一番はつきりと見えて居る。風俗《クニブリノ》諺、風俗[#(ノ)]説、或は単に風俗とも書いて、幾らも出て来るものが、このことわざ[#「ことわざ」に傍点]である。かうした国の讃詞、神の讃詞には、必ず決《キマ》つた詞句があつた。神を讃めるには、其御名の上に、その決つた詞句をつけるといふ風にする。
是が使用し慣れてくると、上に冠せる讃詞だけを出して、本道の神の名は出さずとも訣る様になる。更にさうしてゐるうちには、時が経つに従つて、讃詞とその内容とが訣らなくなつて了ふ。讃詞だけが古くなり、何時までも固定したまゝで、記憶し直すといふことがないが、下につける神の名、国の名は何時でも記憶し直し、常に新しい印象を持たうとしてゆくからである。譬へば「筑波の岳《ヤマ》に黒雲|挂《カヽ》り衣袖漬《コロモデヒタチ》の国」といふ風俗の諺(常陸風土記)、其ひたちの国[#「ひたちの国」に傍点]だけは始中終新しくなつてゆくけれども、「筑波の岳に黒雲挂り衣袖漬」は固定してゐる詞句である。ところが、此諺を見ると、我々にも何だか訣る様な気もする。さういふ気がしなくとも、言葉を知る能力が発達して来て、知らうとする慾望だけは持つて居るから、之が理会力と一つになつて、いろ/\に説明して、何とか訣らして了ふ。既に、風土記では日本武尊、東夷の国を巡狩なされて、新治の県においでになつた時、国造比那良珠[#(ノ)]命、新に井を掘らしめたところが、泉浄澄にして愛はしかつた。尊、御輿を停めて、水を翫び、手を洗ひ給うた故に、御衣の袖が泉に垂れて沾れた、即ち、袖を漬《ヒタ》す義に依つて、此国の名としたと言ふのである。ところが、中には説明しようにも、説明のつかぬといふのが幾らもあつた。讃められる語は訣つてゐても、讃める方の詞章が訣らぬので、結局、此方を妥協して訣る様に/\してゆく。つまり、讃められる語の意味を、讃める詞章の持つてゐさうな意味に、附会してゆくことになる訣である。万葉集に出る「いさなとり」といふ語なども、始めは、ある点まで訣らなかつた語であつたのを、始中終使はれてゐるうちには、適当な語が、それについてくる。鯨を取ることだらうと解して、海をくつゝける、といふ風にくつゝけてゆくのだ。かうなつてくれば、もう、讃めるといふ意味は忘れて了ひ、何だか知らぬが、昔からさう言つてゐるから守つてゆかう、といふだけのことになる。併し、どうせ使はねばならぬものなら、成るべく訣らせてゆかう、讃詞を讃められる詞に合せる様にしてゆかうといふことになつて、枕詞といふものが出来てゆくのである。
枕詞の一番古い起源が之である。何だか知らぬが、くつゝけておかねばならぬ詞章がある。それに、之ならば訣るだらうと思ふ様な語を、その下につけてゆくのだ。さうなると、従つて枕詞の利用範囲が拡がつてくるので、一つ/\を見てゆくと、皆、その枕詞の起源の様に見える。起源と言はれるものは、或は幾つもあるかも知れぬが、とにかく、其最初は、今言つた様な、諺から出て来た形だ。だから地名の枕詞は、割合に純粋であり、同時に古くもあると言へよう。ところが、その様に諺であつた枕詞が、殆ど無意味な形式的なものとなり、もと讃詞であつたことも忘れて了ふ。理由は知らないが、重要性を持つてゐる霊的な不思議な詞章だ、と考へて来る。さうして、どうせ我々の祖先から伝へて来た財産ならば、其を生かして使はなければならぬ、といふ気持から、既に死んで了つた詞句を生かして来ようとする。つまり、意味がないと思つてゐた言葉に、だん/\意味をひつぱり出して来る訣だ。譬へば、祝詞の解釈に当つて、その讃詞が訣らないので、狭い範囲の比較研究をして、宣命ではかう、古事記ではかう、といふ風に見て来る。かういふ態度は、学問的だとは言へるが、併し其原初の意味をつきとめるといふ事は容易な業ではない。
四
一体、言語の学問は、比較言語学の土台に立たねばならぬ事は勿論であるけれども、日本言語学――謂はゞ、さう言ふべきもの――をも確立しなければならぬ。日本の文法は、日本言語学と言つていゝものであらうが、今の文法は純粋に学問ではなく、通弁の学問が少し進歩して来た程度のもので、之を日本言語学と言ふには、少しく淋しい気がする。もつと言語学風になつてもいゝと思ふ。今尚、文章を書く
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