だからである。
一方にはうたゝあり[#「うたゝあり」に傍線]がある。うたて[#「うたて」に傍線]とうたゝ[#「うたゝ」に傍線]とは同じだといふ気がするが、既に転といふ字をうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と訓んで居る。転をうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と訓む理由のあつた時代がある。宣長の訓は誤りではないであらうが、もう少し考へた方がよかつた、といふ気がするのは其意味に於いてだ。字鏡では漸の字を、さう訓んで居り、状態が転じて、いよ/\甚だしくなつてゆくことをうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と言つた、といふことだけは訣る。だから訓み方は誤りではないが、細かい点に違ふところがある。とにかく、どうにもかうにも訣らぬ様になつたといふ感じをうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と言つて居る。平安朝の例で言ふと、
[#ここから2字下げ]
思ふことなけれどぬれぬ。我が袖は うたゝある野べの萩の露かな(後拾遺 能因法師)
[#ここで字下げ終わり]
之は普通のうたてあり[#「うたてあり」に傍線]の意味では解されない。「物思ひも無いのに袖がぬれた。どう考へても袖のぬれたのが訣らぬ、萩の露よ。」といふので、つまり、ひどい状態は事実
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