様な、此歌の類型歌が出て来、此類型が頭にこびりついてゐて、どんな機会にも、其が起つて来る。即ち昔は我々の文学観とは違つて、知識としての価値を認めてゐたのである。とにかくこの二首は結局同じ歌だ。恐らくは、昔の人も、さう解釈してゐたであらうと思ふが、之を先の「けなばけぬかに」の論からゆけば、生ひば[#「生ひば」に傍線]は条件である。で「去年の草に、今年の草がまじつて、生えさうにしてゐる」と言ふだけかも知れぬ。我々は、どうしても後世の聯想に災されて、其もう一つ前の考へ方を見るのは難しいが、さう取るのが本道だらう。つまり「生ふるかにあり」で、生えさうにしてゐる、といふのだ。
言語といふものは、同じ時代の同じ語でも、感じ方も使ひ方も違つてゐるといふものがある。だから、昔の言語に対して、今の感じ方で推して行くといふことは安心出来ない。譬へば又、人麻呂の歌に「ゆくへ知らにす」(巻二)といふ句が出て来る。之は理屈からもあるべき語法である。知ら[#「知ら」に傍線]は知る[#「知る」に傍線]の第一変化、に[#「に」に傍線]は否定の助動詞の第二変化で、中止法によく使ふ形。知らないで、つまり、知らない[#「知
前へ 次へ
全65ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング