為といふ、昔の目的そのまゝにだけ使つて居る。文法が進まぬのも、実際は、一国の日本言語学が起らぬからだ。比較言語学も、勿論大切ではあるけれども、結着するところは、何時でも同じことになつてゐる。一頃流行した様な単に他国語との単語の比較だけなら、辞書さへ備へて居れば出来るのである。ともかくも、日本一国の言語学といふものを興して、早く日本の文法を学問に高めなければならぬ。比較言語学の方法では、或は一部正しいものが出るかも知れぬが、其を以て、日本語の全体を推す訣にはゆかない。日本の言語は、何もうらるあるたい[#「うらるあるたい」に傍点]語系にばかり関係があるのではなく、南の島とも大いに比較研究せねばならぬのは勿論である。とにかくに注意が外へ外へと向いてゆくことは、是は大事なことだと思ふ。民俗学も、日本民俗学といふものが土台になつて、其上で外国との比較をせねばならぬ。土台がしつかりせずに、外国と比較ばかりしても無駄だからである。其と同じ事で、単語ばかり比較研究してみた所で、何時まで経つても、日本言語解決の足しにはならぬ。たゞ似てゐるといふだけの事に過ぎない。言語の根本の類似、根本の系統は、常に、表面の似てゐる、似てゐないといふことを超えて、その底にある。我々の祖先は、南からも来てゐる事は事実だけれども、其は表面を一寸見たゞけで、容易に洞察し得るといふ訣にはゆかない。だから、比較する前に、日本語の形といふものを考へねばならぬ。さうして、その形を、朧げにでも、作つてみる必要があるのである。
譬へば、はしご[#「はしご」に傍線]のことを、昔は、はし立て[#「はし立て」に傍線]と言つて居り、天の橋立[#「天の橋立」に傍点]などの如くに固定して遺つた。此はし立て[#「はし立て」に傍線]は、竪のはしご[#「はしご」に傍線]といふことで、普通の日本語ならばたてはし[#「たてはし」に傍線]といふのが本道であるから、此語は、後世の日本語の構成とは違つてゐる事が訣る。かうした言語現象に就いては、夙く坪井九馬三博士が注意された事があつたが、靴下のことをしたぐつ[#「したぐつ」に傍点](韈→したうづ)、車の前に出てゐる布《キレ》の、簾下《スダレシタ》といふべきを下簾《シタスダレ》と言ひ、岡の傍で岡片《ヲカガタ》とも言ふべき所を片岡と言ふ。(この片岡[#「片岡」に傍点]は非常に拡がつて、地名にまでなつて
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