りきれないので、十年目とか、二十年目とかに一度、と言ふ風に、近年までやつてゐた。土地をきりかへて、班田法のやうな方法によつて、分けてやるのである。江戸時代の末まで行はれてゐたが、明治になつて、絶えて了うた。万葉時代に、事実行はれてゐたのか、それとも、伝説となつてゐたのか、不明ではあるが、商返と言へば、皆に意味が訣つたのである。男女契りを結ぶと、下の衣を取りかへて著た。著物は、魂の著き場所で、著物を換へて身に著ける、と言ふ事は、魂を半分づゝ交換して著けてゐる事である。魂を著物につけて、相手に預けてあるので、衣服を返すと、絶縁したことになる。此処に引いた歌は、軽い洒落で、半分嫉妬し、半分笑うてゐる、おどけた、つまらない歌である。併し此歌で見ても、徳政の起原の古いことが知れる。
明治初年まで、年が悪くて、稲虫がついたとか、悪疫が流行したとかすると、盆に、二度目の正月をしてゐる。暑いのに、門松を立てゝ、おめでたうを交してゐる。すると、気持ちがよくなると共に、総てが新しくなる、と考へてゐた。
正月について考へて見ても、正月の中に、正月を重ねてゐる。元日に続いて、七日正月を迎へ、更に十五日を、小正月と言うてゐる。古来の暦法と、其後に這入つて来た暦との矛盾が、其処に現れた為である。十五日は、支那の暦法でも上元の日で、重く見られてゐる。その印象が、人の頭を支配してゐた。古い時代の暦に較べて、新しい暦法では、正月を早くしてゐる。けれども、昔の正月として、上元の日を定めて、農村では守つてゐた。
地方によると、立春の日を正月と考へ、又七日も正月としてゐる。信州の南の方では、正月元日から、十五日までの間に、正月を四五回繰り返してゐる。従つて、歳暮・大晦日・節分等も、度々やつてゐる。此考へ方は、近世から起つたことではなく、大昔からあつた。暦が、幾度にも渡来したばかりでなく、日本人は、何度も繰り返さなければ、気が済まなかつたのである。
初春には、常世国から、神が渡つて来た。春の初めに行はれる春田うちは、信州にもあるが、此時は、爺婆の姿か、普通の男女の形かで出て来て、田を耕し、畔を塗り、苗を植ゑる形をして、雪中に松を刺して、稲が出来たなど言うて喜ぶ。一年中の事を、とり越してやつて見せると、土地の魂が、其様にしなければならないと感じて、春田うちにやつたとほりに、農作の上に実現して呉れると考へた。初
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