―詳しくは、日奉……大舎人部――といふものであつた。日奉――ほんとうは、日を祀るの義である――部といふものが、代々の天皇の仰せを蒙つて、諸国に散遣してゐた。其が奈良朝になつては、部曲の名のみが残つてゐるばかりであるが、我々の計り知れない昔から、日奉部が、舎人部から出て、天皇に仕へ、地方に帰つて、宮廷から伝つた神秘な力、天体の運行を計る信仰を以て、地方を治めて行つた。すると其国が、天皇の国になる。即、地方から出て、宮廷に仕へた男女が、宮廷の宗教を持つて帰る為に、信仰の非常に違うた地方も、宮廷の信仰と同様になり、宮廷の勢力が及んで、宮廷の領地と考へられるやうになつた。
また、宮廷に似た生活様式を持つたものは、次第に、都の近くに集つて来た。普通これを、大臣《オホオミ》と言うてゐる。以前はおみ[#「おみ」に傍線]を、大身と説いてゐた。即、大臣は国を持ち、天皇には、半服従してゐる、といふ位の国の主で、天皇の国に対して、対照の位置に立つ大忌である。宮廷の神道では、大忌《オホミ》・小忌《ヲミ》(能楽に、小忌衣とて用ゐる)の二通りあつて、をみ[#「をみ」に傍線]は直接神にあたつて、厳重な物忌みをする人であつた。後には、此人達の身分は、次第に低くなつたが、元は、その高い人ほど、厳重な物忌みをしたのであつた。今でも、大嘗祭に当つては、天皇が一番、お苦しみになるのである。三度も、風呂をお召しになる。其時小忌が、天皇の御介錯を申し上げる。小忌は、宮廷で一番、高い位置にある人で、今ならば、総理大臣とも言ふべき人である。
廻立殿《クワイリフデン》の湯は、絶対の神秘で訣らないが、ともかく、女が其役をする。此時に、神秘が行はれるのである。宮殿のは、平安朝まで行はれてゐて、此方は、或点訣るところがある。昔は、宮廷では、天皇が一番、苦しんでゐられた。一年を通じて、殆絶えることなしに続く祭りを、御親祭になるお苦しみは、非常なものであつた。天皇に次いでは、小忌――上達部《カンダチメ》がさうであつた。
上達部とは通称であつて、官名ではない。極自由に用ゐられてゐた為に、平安朝になつて、女の文章が、通用語を記すやうになつてから、記録せられた語である。平安朝の記録に、はじめて現れたと言ふ理由で、此語が、奈良朝には行はれなかつたとするのは、早計であつて、奈良朝時代既に、行はれてゐた語である。当時は、記録の必要を見な
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