暦法は、最遅く移動して来たと思はれる出石人《イヅシビト》(南方漢人)などの用ゐたものが、一等進んでゐたであらう。道・釈の教が、記録の指定する年代よりも遥か以前に、非公式に将来せられてゐたのと同様、暦法も亦、史の書き留めを超越してゐるものと見てよい。天日矛《アメノヒボコ》や、つぬがのあらしと[#「つぬがのあらしと」に傍線]などを帰化民団と見ずに、侵入者と認めた時代の、古渡《コワタ》りの流寓民の村々にくつゝいて渡つて来たものと思はれる。だから、表向き新暦法の将来せられた時は、ずつと遅れる訣である。唯一般になつたと言ふまでゞあらう。かうした村々で、色々な暦法を用ゐ、又次第に相融通するやうになりかけた時代に跨つて話を進める。従つて記録の上では、新暦の時代に入つてゐても、古代研究の立場からは逆にまた、新旧暦雑多の時代と見ねばならぬことも多い。
概算する事も出来ないが、祖先が、日本人としての文明を持ち出した事は、今の懐疑式の高等批評家の空想してゐる所よりも、ずつと古代にあると考へねばならない多くの事実を見てゐる。此古代研究の話も、落ちつく所は、その荒見当を立てる位の事になるであらう。考証と推理とに、即かず離れないで、歩み続けなければならないのは、記録の信じられない時代を対象とする学問の採るべきほんとうの道である。
暦の話ばかりでなく、古代を考へるものが、ある年数を経た後世の合理観を多量に交へた記録にたよる程、却つてあぶないものはない。私は大体見当を、大昔と言ふ処に据ゑて話してゆきたい。そこには既に、明らかに国家意識を持つた民もあれば、まだ村々の生活にさへ落ちつかなかつた人々もあつたものと、見て置いて頂きたい。強ひて問はれゝば、飛鳥の都以前を中心にしてゐるのだが、時としては飛鳥は勿論、藤原の都の世にも、同様の生活様式を見出す事もあり、更にさがつて奈良の時代にも、古代生活の俤を見る事があらう。私の言ひ慣れた言ひ方からすれば、即、万葉びと以前及び万葉人の生活に通じて、古い種を択り分けながらお話する次第である。
陰暦・陽暦・一と月遅らし[#「一と月遅らし」に傍点]と、略《ほぼ》三通りの暦法をまち/\に用ゐてゐる町々村々が、境を接して居ると言ふ現状も、実は由来久しい事なのである。暦法を異にした古代の村々が、段々帰一して来る間に、其々の暦に絡んだ風習が、互にこんがらかつて来て、極めて複雑な
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