る。宣長の方から出た結論に、疑ひを挿まぬ人々も、その態度を学ぶものには、危険を説くに違ひない。信友の方針は、万人拠るべきものとせられてゐる。併し、宣長の仮説が、後学の手で段々具体化せられて来た今日では、誰もその蓋然を呪はない。甚しいのは、翁に数多い、誤つた論理の結果なる仮説さへ、今は定論として信じられてゐる。其と共に、信友の客観性に富んだ結論も、まう改めなければならぬものが多くなつた。
人各、適《フサ》ふ所がある。研究法を以て、研究の最後と見、方法論を以て窮竟地と考へない以上、啓蒙的な意義に於ける正確さをも含んでの論証法の形式を、第一義に置いてばかりも居られない。哲学と科学との間に、別に、実感と事象との融合に立脚する新実証学風があるはずである。一方は固定した知識であり、片方は生きた生活である。時としては、両方ともに、生命ある場合もある。此二つを結合するものが、実感である。かうした実証的な方法を用ゐる事の出来ない、死滅した事象の研究法や、捕捉し難い時間現象を計数の上に立証しようとするのとは、自然違つた方法を用ゐてよい訣である。私の研究は、空想に客観の衣装を被せたものは、わりに尠い。民俗を見聞しながら、又は、本を読みながらの実感が、記憶の印象を、喚び起す事から、論理の糸口を得た事が多い。其論理を追求してゐる間に、自らたぐり寄せられて来る知識を綜合する。唯、其方法は誤らない様に、常に用心はしてゐる。
生きて感じ得ぬ資料を避ける私は、乏しい知識による比較研究によつて、民俗の文献や過去の存在を立証しようとするやうな方法には、年と共に畏れを増して来た。世界共通の伝説の型を解説する様な場合は、気楽になれる。が、実生活の一端として生きてゐるものに対しては、印度・欧洲の暗合を顧慮せねばならぬ。民俗の外的類似から推して、其発源地や、その本義を定める方法を採る事は出来ぬ。だから恥しい程、私の考へは、いつも国中をうろついてゐる。
傀儡子が、東あじあ[#「あじあ」に傍線]大陸に広がつて、朝鮮半島までも来てゐる文献はあつても、それを直に、我が国のくゞつ[#「くゞつ」に傍線]――傀儡子の字面を好んで宛てた――の民の本源だとは信じない。薩満教が如何に、東方に有力でも、日本・沖縄の古来の巫女を以て、其分派と思ふ勇気もない。其を信じ得る時は、即、私自身が実証し得る時である。豊富な資料を自由に活用出来る
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