大先達のうち立てた学界の定説を、ひつくり返すことも出来さうな弱点を見てゐる。だから、立証すべき信念と、その土台となる知識の準備とを、信頼してよい学者の立てた仮説なら、その解釈や論理に、錯誤のない限りは、民俗学上に、存在の価値を許してよいと思ふ。これを更に、必然化する事は、論者自身或は、後生学者の手でせられてもよいはずである。かう言ふ、自身弁護を考へて後、わりに自由に、物を書く様になつた。唯、柳田先生の表現方法から、遠ざかつて行く事を憂へながらも。私は、自身の素質や経験を、虔しやかな意義において、信じてゐた。だから、私のぷらん[#「ぷらん」に傍線]に現れる論理と推定とが、唯、資料の陳列に乏しい事の外、そんなに寂しいものとは思はなくなつた。虚偽や空想の所産ではないと信じて、資料と実感と推論とが、交錯して生まれて来る、論理を辿る事に努めた。
私は、過去三十年の間に、長短、数へきれぬほど旅をして来た。その中でも、近い十五年は、旅をする用意が変つて来た。民間伝承を採訪する事の外、地方生活を実感的にとりこまうと努めた。私の記憶は、採訪記録に載せきれないものを残してゐる。山村・海邑の人々の伝へた古い感覚を、緻密に印象してえた事は、事実である。書物を読めば、此印象が実感を起す。旅に居て、その地の民俗の刺戟に遭へば、書斎での知識の聯想が、実感化せられて来る。

私は、人類学・言語学・社会学系統の学問で、不確実な印象記なる文献や、最小公倍数を求める統計に、絶対の価値を信じる研究態度には、根本において誤りがあると思ふ。記録は、自己の経験記以外のものは、真相を逸した、孫引き同様の物となることが多い。計数によるものは、範疇を以て、事を律し易い上に、其結論を応用するには、あまり単純であり、概算的である。比較研究は、事象・物品を一つ位置に据ゑて、見比べる事だけではない。其幾種の事物の間の関係を、正しく通観する心の活動がなければならぬ。此比較能力の程度が、人々の、学究的価値を定めるものである。だから、まづ正しい実感を、鋭敏に、痛切に起す素地を――天稟以上に――作らねばならぬ。而も、機会ある毎に、此能力を馴らして置く事が肝腎である。
比較能力にも、類化性能と、別化性能とがある。類似点を直観する傾向と、突嗟に差異点を感ずるものとである。この二性能が、完全に融合してゐる事が理想だが、さうはゆくものではな
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