られるのである。此処に、日本の言語伝承が、推移せねばならぬ理由があつた。
此推移の中、一番、目につくのは、文法意識の変化であるが、余り興味のある事ではないから、こゝでは省略しておく。
四
ところが、我々の使用してゐる文法は、誰でも、平安朝の文法だといふが、此平安朝のでさへも、まだ/\しつかりした研究には、達してゐない。只単に、抽象的な文章論はあるが、単語の方は、一向に発展してゐない。此は、文法を発生的に考へないからである。これからも段々、時代々々の文法の書物が出てくると思ふが、時代に添うて、自然に意義が、発生展開して来る点を見るやうにならねば、無意義なことゝ思ふ。平安朝の文法で、古事記なども読んでゐる。古訓古事記でさへもさうであつて、決して、それ以前のものではないのである。今の神職などの祝詞も、平安朝の調子である。
平安朝になつて、みやすどころ[#「みやすどころ」に傍線]といふ語が、忽然と出てくる。此は後に、意味が段々変化したが、普通、天子の御子を産んだ人が、みやすどころ[#「みやすどころ」に傍線]といふ名を得た。此など、訣らない語である。やすみしゝ[#「やすみしゝ」に傍
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