うてゐるが、さうではない。延喜式祝詞は、奈良朝の祝詞の言葉を取り込んで、それに、古い言葉を配当したものと見られる。かうして出来上つた文章は、変なものであつた。そしてそれが、昔の人に、訣つてゐたといふことは、甚不思議である。
我々が、祝詞を講義をするにも、不明で解けない個処がある。が、此が解けるといふのは、我々が其を、合理化して考へるからである。実際をいふと、祝詞は訣らぬものである。訣らぬものとして扱ふと、訣らない理由が、訣つて来る。すると、訣らぬものが、訣るわけである。訣るものとして扱ふと、合理化にひきつけられて結局、訣つて、訣らないことになる。こんな事をいふと、菎蒻問答のやうで、変なものであるが、併し、此が実際である。
昔から唱へ伝へてゐる古い文章は、それを扱ふ人に、はつきりと訣つてゐなかつた。処が、それを何遍でも、扱はなければならない。そこで、その訣らぬところは、自分の解釈を当てはめて扱うた。その為に、其処に段々、合理化が行はれて行くわけである。
かうした言葉が、言語以外に口頭詞章として、伝へられる場合には、単なる伝承者と、新しく創作しようとする者との相違によつて、非常な隔りが生じ
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