言葉があるから、かういふ使ひ方をすれば、新しい言葉が出来る、と考へてゐた跡が窺はれる。わりあひに、理くつの尠い歌でさへさうであるから、宣命だとて、一々、信用は出来ないのである。其時代の言葉と、古語とを調和させた、鵺のやうな言葉が多いのである。
一例をあげると、延言――奈良朝以前から、ずつと後まであつた――の非常に多いといふ事が、此を証拠だてゝゐる。此事は、宣命或は、作者名の明らかな長歌類を見るとよく訣る。が実は、此延言には間違ひが多かつた。殊に、僧侶の作者のものには、此事が云へるのである。
ところが、此らの造語は、造語なるが故に、既に、自由に使用の出来ない、幾多の運命を持つてゐるのである。それで宣命を、他の文章と較べて見ると、浮き上つて、異つてゐることが訣る。此を古い言葉を継いでゐるからだ、と簡単に云うて了ふことは出来ない。言葉に、生き/\した処と、死んだやうな処との混つてゐるのは、それ以外に、目を向けて見ねば訣らぬと思ふ。
右に述べた様な、宣命の形を取り込んで、平安朝になつて、古く固定した、祝詞や唱詞を改作したものが、延喜式の祝詞である。古い学者は、宣命は、奈良朝の祝詞を模倣したと言
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