あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]は、すさのを[#「すさのを」に傍線]の命が、天上の田を荒した為、その時期になると、神に仮装して、田作りを助けに来る。即、償ふのである。畢竟つゝしみ[#「つゝしみ」に傍線]とつみ[#「つみ」に傍線]とは、さう、意味は変らぬのである。かうして、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]を考へて見ると、実は、変なものである。昔の人の考へ方がよいか、自分の考へ方が悪いかといふと、それは、語自身の罪であつて、八心思兼神が悪いのである。
端的に云ふならば、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]は、あめつゝしみ[#「あめつゝしみ」に傍線]である。言ひ換へれば、ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]と言ふ事だと思ふ。この言葉は、万葉にもあつて、雨づゝみ[#「雨づゝみ」に傍線]とも云うてゐる。物忌みは、五月と九月との二度あつて、其中、五月のが主である。それは、ちようど霖雨の時だから、此をながめをする[#「ながめをする」に傍線]といひ、更に略して、ながむ[#「ながむ」に傍線]と言うた。この慎しみの期間は、禁慾生活をせねばならぬのである。此が、平安朝の、物語にある、ながむ[#「ながむ」に傍線]といふ言葉の原であつて、つまり、長い間の禁慾生活をして、ぼんやりしてゐる。其がながめ[#「ながめ」に傍線]であつた。
此ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]即雨づゝみ[#「雨づゝみ」に傍線]を、どうして今まで、天つ罪と、関係して考へなかつたのであらうか。違ひは単に、濁りだけのことである。昔の人には、つゝみ[#「つゝみ」に傍線]でも、づゝみ[#「づゝみ」に傍線]でも、同じ事であつた。此が、田植ゑや、田に関した物忌みで、霖雨の頃にするのである。此事が、すさのを[#「すさのを」に傍線]の命の話と結びついたのだ。あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]は、実は、何でもない事なのである。此について、天つ罪がほんとうだと、云ふ人があつても、日本の伝承の素質では、何方にでも云ひ得るものを持つてゐるので、其を違ふとも云ひ切れない。
以上甚、纏らぬことを述べたが、たゞ日本の語源説とか、文法とかでは、もつとやり直してもらはねばならぬものが沢山ある、といふことだけを考へて頂ければ、此話の目的は、達せられたわけである。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日
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