たに係らず、固有の発想法で、自在に分解叙述してゐる。物皆は時代を追うて発達する。唯語ばかりが、此例に洩れて、退化してゐる例は決して少くないのである。単綴・孤立の漢語は、無限に熟語を作ることは出来ても、国民の感情に有機的な吻合を為すことは出来なかつた。散文はともあれ、思想の曲折を尊ぶ律文に、固定的な漢語が、勢力を占めることの出来なかつたのは、この為である。其にも係らず、世間通用の語には、どし/\漢字の勢力が拡つて来てゐる。
さすれば、短歌に用ゐられる語は、当然|愈《いよいよ》減じて来る訣である。其で、此欠陥を埋めるには、どういふ方便に従へばよいか。之を補填するものとして、漢語・口語・新造語・古語を更に多く採り入れるといふことが、胸に浮ぶ。処が漢字・漢語は、熟語を除いては、既に述べたやうな根本の性質上、まづ今の分では、大した結果を予期することは出来ぬ。
口語は極めて有望なものであるが、此迄色々の人に試みられたやうな、無機的なものでなく、単語としてゞなく歌全体が、口語の発想法によつて、律動するやうなものでなくては、多くの場合無意義な努力になつて了ふのである。新造語も亦其通りで、二つの漢字を並べて、無雑作に捏ち上げられたものであつてはならぬ。全体に鳴り響く生命を持つたものでなければならぬ。
古語と口語との発想や変化に就いて、周到な観察をして、其に随応するやうな態度を採るべきである。唯古語を用ゐることについては、一度常識者流の考へに就いて、注意を払ふ必要がある。彼等は、かういふ妄信を擁いてゐる。われ/\の時代の言語は、われ/\の思想なり、感情なりが、残る隈なく、分解・叙述せられてゐるもので、あらゆる表象は、悉く言語形式を捉へてゐると考へてゐるのである。けれども此は、おほざつぱな空想で、事実、言語以外に喰み出した思想・感情の盛りこぼれは、われ/\の持つてゐる語彙の幾倍に上つてゐるか知れない。若し現代の語が、現代人の生活の如何程微細な部分迄も、表象することの出来るものであつたなら、故《ことさ》らに死語や古語を復活させて来る必要はないであらうが、さうでない限りは、更に死語や古語も蘇らさないではゐられない。反対の側から、此事を考へると、はやり語[#「はやり語」に傍点]の非常な勢で人の口に上るのは、どうした訣であらう。我々の言語が、現代人の思想感情を残る隈なく表象してゐるものとすれば、
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