。此等もあり[#「あり」に傍線]の形を下に踏んでゐると言へぬこともない。だが、さう見ないのが、此形から言つて正しいだらう。(イ)を含んだ例は、「うたて下悩ましも。この頃は」であり、(ロ)のある例は、「うたて見まくぞ欲しき。この日頃よ」である。甚悩しい・極めて見たい気がすると言つてよいところで、之を情なくも、つらくも、心憂くもなど訳するのは、さう訳してもわかると言ふだけで、かう言ふ例が、見られるとほり悲観すべき方へ偏つてゐるところから、さうした次義・三義が生じて来たのである。(ハ)は、この日頃、恋ひ心が頻繁に起つて、「うたて恋ひのしげしも」であり、「愈うたて心いぶせし」が(ニ)。「秋と言へば益うたて心ぞいたき」或は、「花になぞへて、うたて見まく欲りかも」と言ふ風に置き替へて見られるのが、(ホ)である。此中(ホ)は、うたて[#「うたて」に傍線]の関聯する所が、二様に見られる。此はどちらかゞ正しいと言ふより、副詞の位置が流動してゐる為に、恰も二つの語句に繋りを持つてゐるやうになる、日本語における副詞の特別な関聯性を考へる必要がある。此等も亦、甚・極めてなど訳して当るものだ。
之を愈・益と言ひかへても誤りではない。「いよ/\甚しくなり」「ます/\極まりたる状態」に進んでゆく状態を言ふので、謂はゞ甚と愈との間を動揺してゐるものと言ふことが出来る。さうして、昔風に訳すれば、すべて嫌悪・憂鬱など言ふべき心理を表したものと言ふことも出来る。だが其は、甚又は愈或は其間に在る感情の程度か、進行を示すだけの副詞で、其自身には、如何やうの心理かは描写してゐないのである。其下にある悩まし・見まくほし・いぶせし・いたし(又は、見まくほる)など言ふ心の状態の推移や、激しさを示すだけの語に過ぎないのである。
(ホ)のうたて[#「うたて」に傍線]で考へられるやうに、副詞は、直接に即くべき語から游離し易いのが、日本語における事実である。だから、其語自身の接続すべき語との結びつきが極めて緩い。平安期以後の短歌における副詞には、殊にこの傾向が甚しい。勿論散文の上にも、其があつて、文章成分の転換の傾向を、一層激しくしてゐるものと言へる。
言語殊に文章語においては、類型表現を重ねて、なるべく独創の苦痛を避けようとする。其で新しい表情を欲することが尠く、あり来りの形ですまして置かうとする。甚たのしいことにも、愈
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