路に出でゝ、惶八神の渡りは、吹く風ものどには吹かず、立つ浪もおほには立たず、頻《シキ》波の立ち障《サ》ふ道を……(同巻十三)
 ○……海路に出でゝ、吹く風も母穂には吹かず、立つ浪ものどには立たず恐耶神の渡りの頻《シキ》浪のよする浜べに、高山をへだてに置きて……(同)
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
又、A○うれたきやしこほとゝぎす。今こそは、声の干蟹《ヒルカニ》、来鳴きとよまめ(同巻十)
[#ここから2字下げ、折り返して4字下げ]
B○……こゝだくも我が守《モ》るものを。うれたきやしこほとゝぎす……追へど/\尚し来鳴きて、徒らに土に散らせば……(同巻八)
[#ここで字下げ終わり]
尠くとも、Aに属するものは、明らかに「かしこき……」・「うれたき……」と言ふ風に、熟語の形を採つてゐるものと見られる。其に対して、Bのものは、さうした単語を修飾するといふよりも、その効果が、他にも及んでゐる様に見える。即、「かしこきかも」・「うれたきかも」に近づかうとしてゐるのである。此事から更に飜つて見ると、「はしきやし」に関する数多の用例が、元は、熟語を作るものに過ぎなかつたのが、次第に、間隔を置いて対象語にかゝる様になり、更に文章全体に効果の及ぶやうになつた訣が見られるのである。
[#ここから2字下げ、折り返して4字下げ]
a 伴之伎(?)与之 かくのみからに、慕ひ来し妹が心の、すべもすべなさ(万葉巻五)
b 波之寸八師 然る恋にもありしかも。君におくれて恋しき、思へば(同巻十二)
c ……里見れば、家もあれたり。波之異耶之 かくありけるか。みもろつくかせ山の際に咲く花の……(同巻六)
d 早敷哉 誰《タ》が障《サ》ふれかも、たまぼこの 道見忘れて、君が来まさぬ([#ここから割り注]はしきかも[#「はしきかも」に傍線]とも訓むべきかも知れぬ。[#ここで割り注終わり])
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](同巻十一)
[#ここから2字下げ、折り返して4字下げ]
e 級子(寸?)八師 吹かぬ風ゆゑ、たまくしげ ひらきてさねし我ぞ悔しき(同)
[#ここで字下げ終わり]
此等の例は、すべて、連体に似た形を示して居ないばかりでなく、句を隔てゝも修飾してゐるとは言ひにくい様だ。aはまだしも、妹が心にかゝつてゐると言へば言へるが、其とて、全体に対しての叙述だと言ふ方が適切だ。bdに於いては、殊にさうした様子がよく見える。ceになると、完全に離れきつて了うて、唯はしきやし[#「はしきやし」に傍線]と言ふ語の習慣が、気分として用ゐられてゐる風に見える。
結局かう言ふことの起るのは、言語に対する人間の合理性によるのである。古い文法が固定し、次第に正確な理会を失うて来る。而も其形式を襲うて行くことは止めない。さうすると、唯、確かなものは、人々が受ける時代的情調である。これを分解しながら、新しい文法意識を組み立てゝ行く。さうすると、第一義とは非常に離れたものになる筈である。殊に、文学作品の上の用語として使はれた場合は、言語選択機能が働くだけに、一層甚しい。はしけやし(はしけよし・はしきやし・はしきよし)の場合などは、最遅くまで、其俤を留めた一例で、一方多くの「やし」は、殆決定的に、「よし」に変化して、単なる地名を想起せしめる、所謂枕詞の格の助辞の様な形に、統一せられて来てゐたのに、此だけは尚、ある理由の下に残つてゐて、古い気分を保留し乍ら用ゐられてゐた。我々はこゝに熟語を作る語の語尾が、其接すべき語から自由になつて、而も其文章なり句なりに、勢力を及し、表現性能を拡げて来る径路を明らかに認めることが出来たのだ。其が同時に、用言式に言へば、連体性のものを、終止形風に独立せしめることになつたのである。
        ○
「はしきやし」は、かうした一類の中、最特殊な用語例を示したものであるが、尚先にあげた、「あなにやし」「よしゑやし」を見ると、似た処を見出す。「よしゑやし」の「よしゑ」は、「よし」と「ゑ」とが分割出来るものに相違ない。形容詞・動詞の語尾につく所謂感動の語尾の「ゑ」である。今日の理会を以てすれば、「よ」と音韵の上で通じるものと見ることが出来る。だから、或は「よしゑやし」の場合、同じ価値を持つ「ゑ」と「や」とが、重畳せられたものではあるまいか。
[#ここから2字下げ]
世の中は、古飛斯宜志恵夜《コヒシケシヱヤ》。かくしあらば、梅の花にもならましものを(万葉巻五)
[#ここで字下げ終わり]
この第二句を「恋しけ しゑや」「恋ひ繁しゑ や」「恋しけし ゑや」何れにとる事も出来る。だが、何れにしても、ゑ[#「ゑ」に傍点]・や[#「や」に傍点]の結合状態は、暗示せられてゐる。而も、更に見られるのは、文法の固定作用から、「しゑや」と言ふ一つの形式
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