了うてゐる。歩射《ホシヤ》の神事には、節分の日昏れ、或は大晦日の日昏れに、馬場などに的を造つて、射ることがある。此を鬼矢来の式と称するが、此は逆で、神の来る式におにやらひ[#「おにやらひ」に傍線]の式が混入し、村人のおに[#「おに」に傍線]の信仰が変化して結びつき、こんな矛盾した形が出来たのであらう。
社々で行はれてゐる神楽には、鬼が現れてする問答がある。鬼が言ひまかされて逃げて行く処が、神楽の大事な部分である。此考へは、追儺の式と同じであるが、これにも矛盾が沢山ある。歳神と言ふのは、毎年春の初めに、空か山の上かゝら来る神で、年の暮れに村人が歳神迎へに行く。其時には、山の中の神の宿る木を見つけて、其木に神の魂を載せて帰る。かうした意味で、門松の行事の行はれてゐる地方が、沢山ある。此時神は、門松に唯一人で載つて来るのではなくて、大勢眷属を率ゐて来るのである。かうした神を祀る処は歳棚で、歳棚の供物には、鏡餅・粢《シトギ》・握り飯等があるが、皆魂の象徴であつたのだ。其数は、平年には十二、閏年には十三である。此は、神の眷属は大勢あるが、一个月に一人づゝ来るものと見て、此習慣が出来たのであらう。
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