宿禰と云ふ家であつた。だから、其家の宰領する村を、丹比壬生部と称へてゐる。瑞歯別の伝説は、全く、此丹比壬生部の伝承した叙事詩から出たものに他ならぬのである。
さて代々の多くの皇子たちの壬生及び壬生部は、皆別々の家を選んで、其皇子の私有になる村々を、宰領させられた訣であつた。みぶ[#「みぶ」に傍線]の本体なる産婆・乳母のみぶ[#「みぶ」に傍線]の――選抜された家々の直系の女子である――出た其家長は、其際水辺に立つて、寿詞を奏上すると云ふのが、きまつた形式と考へられる。此が、史書を読む読書、鳴弦の式に変つて行つたのだ。新撰姓氏録を見ると、反正天皇のみあれ[#「みあれ」に傍線]に与つた丹比宿禰の伝へを記してあるが、其によると、瑞歯別の誕生の時、丹比部の祖先|色鳴《シコメ》宿禰が天神寿詞《アマツカミノヨゴト》を奏したとある。そして此寿詞を奏上する間に、みぶ[#「みぶ」に傍線]に選ばれた女子が水に潜つて、若皇子をとりあげるのである。
産湯と云つて来たが、古代は水をもつて湯とも称してゐる。誕生の際、正確に湯にとりあげたのは何時の頃よりか知られてゐない。一体、湯は斎川水《ユカハミヅ》と云ふ語の慣用が、こんな略形に変じ来つたのであるが、古いものを繙けば、天子の沐浴を、ゆかはあみ[#「ゆかはあみ」に傍線](湯川浴)と訓じてゐるのが目にとまる。つまり斎川《ユカハ》の水をゆみづ[#「ゆみづ」に傍線]と云ひ、更に略して「ゆ」といふ形を生んだので、今いふやうな、温湯を湯と称するやうになつたのは、遥か後代の事である。だから産湯には、冷水を用ゐた時代のあつた事を含めて考へなければ当らない事になる。
さて、ゆ[#「ゆ」に傍線]即、ゆかはみづ[#「ゆかはみづ」に傍線]は、何の為に用ゐるのかといふに、此は申すまでもなく、みそぎ[#「みそぎ」に傍線]の為である。今日までの神道では、禊祓は凶事祓へを本とするやうに説いてゐるが、此は反対で、吉事祓へが原形である。来るべき吉事をまちのぞむ為の潔斎であるのが、禊祓の本義であつた。
禊祓の話は、此処にはあづかる事として、貴人誕生の産湯は、誰も考へるやうに禊ぎに過ぎないが併し、その水は単なる禊ぎの為の水ではなく、或時期を限り、ある土地から、此土により来るものと看做された。即、其水の来る本の国は、常世国であり、時は初春、及び臨時の慶事の直前であつた。海岸・川・井、しか
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