を本義として、虫のだに[#「だに」に傍線]と一つものとする考へ方とである。此後とも此種の報告が集つて来て、先生の結論を、どう言ふ方面にお誘ひ申すかわからないが、私も此物語に絡んでゐる点だけの小口をほぐさせて頂く。あの室生山の入り口、赤埴仏隆寺のひだる神[#「ひだる神」に傍線]の事は知らないで居たが、あれを読んで、自分一人思ひ合せる事がある。中学生で居た頃、十八の春の夕、とつぷり暮れてから一人、あの山路を上つて室生へ下りた事がある。腹がすいて居たけれども、あるけなかつた程ではない。室生の村の灯を見かける様になつてから、棚田の脇にかけた水車の落し水を呑んだ。其水の光りはいまだに目に残つてゐる。あの報告を読んでぞつとした。其感銘を辿りながら書いて行く。
私は餓鬼についての想像を、前提せなければならぬ。餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺
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