ものである。此は桜の枝につけて遣つたものであらう。
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此花の一弁《ヒトヨ》の中《ウチ》は、百種の言《コト》保《モ》ちかねて、折らえけらずや(万葉巻八)
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此は返歌である。此二つの歌を見ても、花が一種の暗示の効果を持つて詠まれて居ることが訣る。こゝに意味があると思ふ。桜の花に絡んだ習慣がなかつたとしたら、此歌は出来なかつたはずである。其歌に暗示が含まれたのは、桜の花が暗示の意味を有して居たからである。
此意味を考へると、桜は暗示の為に重んぜられた。一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。其心持ちが、段々変化して行つて、桜の花が散らない事を欲する努力になつて行くのである。桜の花の散るのが惜しまれたのは其為である。
平安朝になつて文学態度が現れて来ると、花が美しいから、散るのを惜しむ事になつて来る。けれども、実は、かう云ふ処に、其基礎があつたのである。かうした意味で、花の散るのを惜しむといふ昔の習慣は吾々の文学の上には見られなくなつて来たが、民間には依然として伝はつて居る。
文学の上の例として、謡曲の泰山府君を見ると、桜の命乞ひの話がある。泰山府君は仏教の閻魔と同様なもので、唐から叡山の麓に将来した赤山明神である。此神に願を懸けて、桜の命乞ひをした桜町中納言(信西の子)の話がある。まことに風流な話であるが、実生活には何らの意味もない。だが、こゝに理由があるのだ。即、桜の命乞ひをする必要があつたのだ。此習慣から、実生活に入つて、桜町中納言を持ち出したのである。
三
平安朝の初めから著しくなつて来るものに、花鎮《ハナシヅ》めの祭りがある。鎮花祭は、近世の念仏踊り・念仏宗の源となり、田楽にも影響を及して居る。
鎮花祭の歌詞は今も残つてゐるが、田歌であつて、かういふ語で終つて居る。
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やすらへ。花や。やすらへ。花や。
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普通は「やすらひ花や」としてゐる。「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であつて、ぐづ/\する事である。ぐづ/\して、一寸待つて居てくれと言ふ意味である。だから、此鎮花祭を「やすらひ祭り」と言ふのである。
この祭りの対象になる神は三輪の狭井《サヰ》の神であつて、尠くとも、大和から持ち越した神に相違ない。田の稲の花が散ると困ると言ふ歌を歌つて、踊つたのである。其がだん/\と芸術化し、宗教化して来た。最初は花の咲いて居る時に行うたのであるが、後には、花の散つてしまうてから行はれる様になつた。此では何の役にもたゝない。
日本人の古い信仰では、色々関係の近い事柄は皆、並行して居ると考へてゐた。譬へば田に蝗が出ると、人間の間にも疫病が流行すると考へて居たのも、其だ。平安朝の末になると、殊に、衛生法が行届かなくなつて、死人は加茂の河原や西院に捨てゝ置かれた程である。そこで、普通の考へでは、春と夏との交叉期、即ゆきあひ[#「ゆきあひ」に傍線]の時期に、予め起つて来さうな疫病を退散させる為に、鎮花祭は行はれたものであると言うて居るが、実はさうではない。此以前に、もつと大切な意味があつたのだ。即、最初は花のやすらふ[#「やすらふ」に傍線]事を祈つたのであつた。其が、蝗が出ると、人の体にも疫病が出ると言ふので、其を退散させる為の群集舞踏になつたのだ。此によつても、桜が農村生活と関係あつた事は訣ると思ふ。さう言ふ意味で、山の桜は、眺められたのである。
其後になると、卯の花が咲き、躑躅が咲き、皐月が咲く。卯の花は、卯月に咲くから卯の花だと言はれて居る。此説には私は少し疑ひを持つて居たが、近頃では却つて、此考へに同情して来た。卯月と卯の花とは関係があると思ふ。此 ut は、何か農村の呪法に関係がある様だ。私は卯月と言ふ月は、此と月と結合して出来た語であり、卯の花の u と ut とは同じものと見て居る。
正月に使用するうづゑ[#「うづゑ」に傍線](卯杖)・うづち[#「うづち」に傍線](卯槌)などゝ言ふものがある。形は支那から来て居るが、其元の信仰は日本のものである。うつ[#「うつ」に傍線]には、意味がある。捨てる[#「捨てる」に傍線]も「うつ」である。うつちやる[#「うつちやる」に傍線]・なげうつ[#「なげうつ」に傍線]も、捨てる[#「捨てる」に傍線]事である。古い処では「うつ」は、放擲すると言ふ事に使用されて居る。だから、私は、卯杖・卯槌は、地べたのものを追ひ払ふ為に、たゝくものだと考へて居る。土を敲くのは、土の精霊を呼び醒す事であり、土地の精霊を追ひ払ふ事とも考へて居た。
十月の卯の日に玄猪の行事をする。土龍《モグラ》を嚇すと言ふのは後の附会で、地中に潜んで居る精霊
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