になつたのであらう。其が次第に、水の神への供養と言ふ様に、思はれて行つたのではないか。其で、河童の好物を胡瓜とする考へが、導かれて来たと思はれる。
[#「全身薄墨ヌリ」のキャプション付きの河童の図(fig18395_09.png)入る]
三 河童の馬曳き
馬も牛も、人と同じ屋根の下に起き臥しゝてゐた。田舎では、今も牛部屋、厩を分けないで居るのが多い。かうした人間の感情を稍理解する畜類に対しては、やはり一種の祓への必要を感じ出したのである。二月頃に、多くは午の日だが、縁日の日どりに従うて、外の日にする事もある。牛馬を曳いて、山詣りをする。此は御事始めの日から初まる田の行事の為に、田に使ふ畜類に、山籠りをさせる風の変化したものである。牛の方にまづ行はれた事が、馬にも及んだらしい。後には馬の用途が広まつて、馬の山詣りが殖えて来、午の日を、春祭りの縁日とする社寺を択ぶ様にもなつた。
田植ゑが過ぎると、牛には休養の時が来る。馬には、其がない。牛の※[#「牛+子」、287−5]が生れると、其足形を濡れ紙にとつて、入り口の上に貼る。既に祓へのすんだ、牛ばかりゐる標である。悪霊の入り来て、※[#「牛+子」、287−6]を犯す事を避けたのである。牛は、水に縁の濃やかな獣である。土用丑の日を以て、形式にでも、水に浸らねばならなかつた。淵や滝壺の主《ヌシ》に、牛の説かれてゐる処もかなりにある。
馬にも、やはり川入りの日があつた。其為に、馬も亦、水神と交渉を持つ様になつた。尾張津島祭りも、一部分は、馬の禊ぎを含んで居る。この社の神人が、厩の護符を配り歩いたのは、多くの馬に代つた、神馬の禊ぎの利益に与らせようとするのである。馬は、津島の神馬である。馬の口綱をとつて居るのは、猿である。神人であることもある。猿を描いたのは、津島以外の形式が、這入つて居るのである。此は、大津東町に処を移した穴太《アナホ》の猿部屋の信仰である。日吉山王の神猿が、神馬の口添ひとなつて、神の伴をすると考へた為である。神馬に禊ぎをさせるのも、此猿である。この猿の居る処には、神馬に障りがない。其にあやからせようと言ふのが、馬曳き猿の護符であつた。今も、途上で逢ふ事である。馬の腹掛けに、大津東町と染め出したのをつけて居る。其馬の、猿部屋の守護を受け、日吉の神馬の禊ぎに与つたものとの標である。
昔は、日本の国中、
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