して深い生命の新しい兆しは、最鋭いまなざしで、自分の生命を見つめている詩人の感得を述べてる処に寓《すま》って来る。どの家の井《いど》でも深ければ深い程、竜宮の水を吊り上げる事の出来る様なものである。此水こそは、普遍化の期待に湧きたぎっている新しい人間の生命なのである。叙事の匂いのつき纏《まと》った長詩形から見れば、短詩形の作物は、生命に迫る事には、一層の得手を持っている訣《わけ》である。
短詩形の持つ主題
俳句と短歌とで見ると、俳句は遠心的であり、表現は撒叙式である。作家の態度としては叙事的であって、其が読者の気分による調和を、目的としているのが普通である。短歌の方は、求心的であり、集注式の表現を採って居る。だから作物に出て来る拍子は、しなやかでいて弾力がある。読者が、自分の気持ちを自由に持ち出す事は、正しい鑑賞態度ではない。ところが芭蕉の句はまだ、様式的には短歌から分離しきって居ない。それは、きれ字[#「きれ字」に傍点]の効果の、まだ後の俳句程に行って居ない点からも観察せられる。芭蕉の句に、しおり[#「しおり」に傍点]の多いのも、此から出て居る。併しながら元々、不離不即を理想にした連俳出の俳句が、本質の上に求心的な動きを欠いて居る事は、確かである。此点に於て、短歌は俳句よりも、一層生命に迫って行く適応性を持って居ることは訣《わか》るであろう。唯、明治・大正の新短歌以前は、その発生の因縁からして、かけあい[#「かけあい」に傍点]・頓才《とんさい》問答・あげ足とり・感情誇張・劇的表出を採る癖が離れきらないで居た。其為に、万葉集以後は、平安末・鎌倉初期に二三人、玉葉・風雅に二三人、江戸に入って亦四五人、此位の纔《わず》かな人数が、求心努力を短歌の上に試みたきりである。だから此点から見れば、短歌の匂いを襲《つ》いで、而も釈教歌から展開して来たさび[#「さび」に傍点]を、凡人生活の上に移して基調とした芭蕉の出た所以《ゆえん》も、納得がゆく。同時に長い年月を空費した短歌から見ると、江戸の俳句の行きあしは遥かに進んで居る。
而も俳句がさび[#「さび」に傍点]を芸の醍醐味《だいごみ》とし、人生に「ほっとした」味を寂しく哄笑《こうしょう》して居る外なかった間に、短歌は自覚して来て、値うちの多い作物を多く出した。が、批評家は思うたようには現れなかった。個性の内の拍子に乗って
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