時としては邪推さえしてまで、丁寧心切を極めて居る批評は、批評と認めないのかといきまく人があろう。私は誠意から申しあげる。「そうです。そんな批評はおよしなさい。宗匠の添刪《てんさん》の態度から幾らも進まないそんな処に※[#「彳+詆のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》して、寂しいではありませんか。勿論私も、さびしくて為方がないのです。」居たけ高な[#「居たけ高な」に傍点]と思われれば恥しいが、此だけは私に言う権利がある。実はああした最初の流行の俑《よう》を作ったのは、私自身であったのである、と言う自覚がどうしても、今一度正しい批評を発生させねば申し訣《わけ》のない気にならせるのである。海上胤平翁《うなかみたねひらおう》のした論難の態度が、はじめて「アララギ」に、私の書いた物を載せて貰う様になった時分の、いきんだ、思いあがった心持ちの上に、極めて適当に現れて居たことを、今になって反省する。歌は感傷家程度で挫折《ざせつ》したが、批評の方ではさすがと思わせた故中山雅吉君が、当時唯一人、私の態度の誤りを指摘して居る。なんの、そんな事言うのが、既に概念論だ。これほど、実証的なやり口があるものか、と其頃もっとわからずや[#「わからずや」に傍点]であった私は、かまわず、そうした啓蒙《けいもう》批評をいい気になって続けて居た。今世間に行われて居る批評の径路を考えて見ると、申し訣ないが、私のやった行きなり次第の分解批評が、大分煩いして居るのに思い臻《いた》って、冷汗を覚える。此が歌壇の進歩の助勢になった事だったら、どんなに自慢の出来る事かと思うと残念だ。其私自身が言うのだから、尠くとも、此方面に関してだけは、間違いは言わない筈である。
難後拾遺集・難千載集以後歌集の論評は、既に師範家意識が出て居て、対踵地《たいしょうち》に在る作者や、団体に向けての排斥運動だったのである。私にも、そうした師範家に似た気持ちが、全然なかったとは言えないのが恥しい。その如何にも批評らしい批評がいけないとすれば、どんな態度を採るのが正しいのであろう。
批評の本義を述べ立てるのは、ことごとしい様で、気おくれを感じるが、他の文学にそうした種類の「月毎評判記」めいたものが行われて居るから、少しは言ってもさしつかえのない気がする。批評は作物の従属でないと言う事は、議論ではきまって居る様でいて、実際はなかな
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