助の転生一件はない。
尤、革細工を細工と言うたのは、説経以前の有無は疑はしい。或は皆人知り悉した伝説である為、名を略した事、田畑之助の姓を脱したのと同じだ、との説明も出来ぬではない。而も輿地誌略には、小次郎、若に男色の語らひをした様に書いてゐる。「女筆始」には、若に思ひを寄せた男を関寺半内として、其妻が計らうて、若に事情を訴へて、盃を貰ひ受ける事になつてゐる。或は説経は此点を落したのかも知れぬ。
但、小次郎の名は、助六狂言の影響から、京の小次郎(曾我兄弟の異父名)などの名をとり入れたのではないかと疑はれる。其は、順序は此と逆ではあるが、月小夜《ツキサヨ》といふ名が、曾我狂言に入つたと同じ径路を持つたものと考へられる。(に)の大道寺の姓も「花館愛護桜」の絵、並びに其以後の愛護物語には、大抵見えて居るので、説経以後突然出来たものとも思はれぬ。(り)の転生説は説経にも、細工夫婦を故らに唐崎で死なせてゐるから、痕形もなかつた事ではなく、説経の手落ちと見る方がよさ相である。
即、此説経は、前半は極めて緻密な作意を立てたのであるが、若出奔以後は、衆人周知の事を言ふので、極の梗概を語るに止めたものらしい。穴生の姥の事を叙べて「もゝのにこう[#「もゝのにこう」に傍線]が之を見て」など言うたのも、其間の消息を洩してゐるのであらう。だから後半は、殆ど伝説其儘で、前半は創作と迄言へずとも、古浄瑠璃の型を追うて書いたものだ、と言ひきつて差支へないであらう。
愛護若伝説を輿地誌略の作者の友人は「秋の夜の長物語」の飜案と考へて居たらしく、志田義秀氏は長物語から糸を引いた、隅田川伝説の一つと考へられたらしい(郷土研究一の三)。長物語と此民譚とに通じる点は、
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梅若(長物語)愛護二人ながら、公家の子である点(い)。叡山に関係ある点(ろ)。桂海律師と細工と(は)。叡山なる人に逢ふ為、住家を出ること(に)。唐崎の松が、主要な背景になつてゐること(ほ)。入水(へ)。衣掛け(と)
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の数ヶ処で、似て居ない点もある。其は、
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肝腎な「松のうけひ」と「桃・麻の呪ひ」が、此にはあつて、彼には見えぬ事(ち)。同性の愛が中心問題になつてゐるのと、ゐぬのと(り)。継子虐待の有無(ぬ)。此は本地物で、彼は発心物語の一種とも言ふべきこと(る)。彼は山門・寺門の交渉を背景としてゐるのに、此は三井寺には無関係なこと(を)
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などである。長物語は全く、智証門徒なる南谷の慶祚と、西谷の座主良真との関係(厳神抄)に、脚色を加へたものであらう。其上、隅田川の梅若と比べると(い)(へ)(と)並びにさすらひ[#「さすらひ」に傍線](わ)の四点は類似して居り、細工と人買ひとが、幾分同じ傾向の役廻りに在る事を感ぜしめるに過ぎぬ。
此伝説は、鎌倉の初めから室町に到つて完成した継子虐待物語――落窪物語は疑ひもなく鎌倉初期の作――(ぬ)と、室町から江戸の初め迄勢力のあつた本地物語(る)との上に、やはり室町に芽ざして、江戸に入つて多様な発達を遂げた殉死、寧心中物語(を)と、室町に著しくなつた若干の児物語(か)とを加へて経としてゐるから、此伝説の主要部は、徳川初期には既に、出来上つてゐたもの、と見てよからう。処が「長物語」の様な創作に比べると、却つて非常に古い種を蔵してゐるのも、不思議である。
其は、大宮権現の由緒と融合したうけひ[#「うけひ」に傍線](ち)と、貴人流離(か)の二つの形式が見える事である。日吉大宮の鎮座次第は、沢山の書物が繁簡の差こそあれ、皆口を揃へて、同じ筋を語つてゐるが、其中で「厳神抄」の伝へが、愛護民譚の一部に最よく似てゐる。
此神、天智の御代に、坂本へ影向せられたが、大津の八柳で疲れて、徒《カチ》あるきもむつかしくなつた。其で、大津西浦の田中[#(ノ)]恒世の釣り舟に便乗して、志賀[#(ノ)]唐崎に着かれた。船の中で恒世が、自分用意の粟の飯を捧げた。唐崎の琴[#(ノ)]御館[#(ノ)]宇志丸の家で、我は神明だ、と名のられたが、しるし[#「しるし」に傍線]を見せ給へと言はれたので、御船の儘で松の梢に上られた(ち)。
恒世は田中[#(ノ)]明神、宇志丸は山末[#(ノ)]明神となつた(耀天記・山王利生記参照)とある外、耀天記には、神の杖が化生した(ち′[#「ち′」は縦中横])と言ふ形を伝へて居る。(ち)と(ち′[#「ち′」は縦中横])とは合体して、一つのうけひ[#「うけひ」に傍線]の形式になつてくるのであるが、(か)は唐崎着岸までの苦労が其に当る。
尚此(ち)と(か)を備へた同種の民譚の中、一番形式の単純なと思はれるのは、浄見原天皇の流離譚であらう。天皇は吉野を出て宇治の奥、田原[#(ノ)]里で、里人の情の※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《ヤ》き栗・ゆで栗を傍《カタ》山の岨《そへ》に埋めて、わが身栄ゆるものならば、此栗生え出る様に、とうけひ[#「うけひ」に傍線]給うたら、栗が生え出した。朝廷へ献る田原の栗は、即其なごりで、其時の痕が微かに残つて居る。天皇は其から志摩に出、美濃に奔られて、墨股《スノマタ》川で、不破明神の化身なる布洗ひ女に救はれ給うた(宇治拾遺)。
日吉山王の舟祭りに、膳所に渡御なると、粟の飯を献ることは名高い話であるが、其由来を此民譚では、若に粟飯を与へた田畑之助が、粟津の人であつた為、其が為来《シキタ》りになつたのだとも言ふ。処が、此が今《モ》一つ、田中明神なる恒世の話の変形である上に、此膳所田中[#(ノ)]社は、一名田畑の社として、田畑之助を祀つた(輿地誌略)ものと言ひ、又天武流離の節同様に、粟津の里人が献つたのだ(輿地誌略)との伝へもある。
思ふに、山城綴喜郡も田原迄入り込むと、近江の栗太郡に接してゐるから、田原栗の伝説が、瀬田川を溯つて近江へ入つたものか、又、田原(粟津)志摩とさすらひ[#「さすらひ」に傍線]の道筋の譚として説いて居たのか、いづれかであらう。田原栗の話が愛護民譚に関係の深いことは、貴人さすらひ[#「貴人さすらひ」に傍線]以外に、うけひ[#「うけひ」に傍線]の一条を、若の方では松のうけひ[#「松のうけひ」に傍線]・桃麻の呪ひ[#「桃麻の呪ひ」に傍線]の両方に分けてゐると言ふ点だけでなく、全体此話の主要人物なる左衛門・田畑之助の姓の荒木・大道寺と言ふのが、偶然に出来た名前とは思はれぬ事である。天武に栗を献つた人が、田畑之助と言ふ名であつたと仮定しても、大道寺は依然決着せぬ。
此処に伊勢新九郎長氏の種姓《スジヤウ》調べが、一道の光明を与へる。長氏の本貫は、大和とも宇治とも言ふ。其祖盛継は「天性細工に妙を得。其頃大坪道禅弟子として、鞍鐙の妙工を相伝す。伊勢守の家、是より此細工を専らとす」るやうになつたのであるが、長氏浪人の後、東国下向に伴うた腹心の者に、山中・多田・荒川・佐竹及び荒木兵庫頭・大道寺太郎の六浪士が(北条五代記)ある。而も荒木・大道寺共に、田原郷の地名である。
天武流離譚が、田原から江州へ推し出した事は想像出来る上に、此地名から見ても、宇治の田原を本貫に持つたとも考へられる後北条氏が、馬具細工の家筋であつたと言ふ事は、愛護民譚の細工小次郎が譬ひ琴[#(ノ)]御館[#(ノ)]宇志丸の変形であつたとしても、余りに突発的だつた此人物の融和点を示すと共に、田原栗民譚が、愛護民譚に歩み寄つた痕を見せるものと考へる。

     三

説経の表面から見ても、山王祭りにえたの干与する事を暗示して居るやうであるが、古くは、京の河原辺の部落ではなく、瀬田川下の村が与つて居たのではあるまいか。此民譚直接間接に深い交渉を持つてゐぬとも言へまい。
細工が臼の上に若の座を設けたと言ふ形は、浅草観音宮戸川出現の条に似てゐるが、ともかく、祭りに賤民が重要な役目を務めた事を示したのは疑ひがない。尚細工を古くから馬具細工の意に解して居た証拠は「名歌勝鬨」には、細工小次郎に宛てゝ、鞍作杢作及び其娘お為と言ふのを設けて居るのでも知れる。
田畑之助と言ふ名は、変な名であるが、室町から江戸にかけて、助の字のつく名には、妙なのが、物語・芝居の類には殊に多い。葛の恨之介・稲荷之助・女之介など、其であるが、膳所での山王祭りの頭人《トウニン》の名は、近江之介・粟津之介など言ふ。かうした方面の聯想も、幾分働いて居るのであらう。
田畑之助を祀つたと言ふ田中山王社一名田畑[#(ノ)]宮は、疑ひもなく同じ粟の話のある恒世[#(ノ)]社である。膳所の近辺中庄村瓦浜に在るが、古くは其地の亀屋といふ家の界内に在つた。其家は堀池氏で、堀池は佐々木氏の一族だ(誌略)といふが、亀屋の主人が祭りの頭人となる時の名が、田畑之助だつたかも知れぬ。
山門・寺門の関係と、大友|村主《スグリ》の本貫であると言ふ辺から、山王を天武、新羅明神を大友[#(ノ)]皇子と考へた時期も、あつたらしく思はれる。所謂桃のにこう[#「桃のにこう」に傍線](尼公か)の件は、石芋民譚(土俗と伝説一の一、田村氏報告参照)の形式で、穴生とも言ふ賀名生に脂桃の話のあるのは、暗合でなく何かの脈絡のありさうな気がする。
大体石芋民譚は、宗教家の伝記に伴ふものが多い様だが、古くは慳貪と慈悲とを対照にした富士・筑波式の話であつた。其善い片方を落したのが石芋民譚で、対照的にならずに、善い方だけの離れたのもある。宗教家は精霊を使ふ者と考へられて居た為に、精霊の復讐と言ふ風の考へが、一転して石芋民譚となるのであらう。古く言語精霊《コトダマ》の活動と考へられたのろひ[#「のろひ」に傍線]が、役霊の考へに移つたのは、大部分陰陽家の職神・仏家の護法天童・護法童子の思想の助勢がある様である。役霊・護法の活動は、使役者には都合はよいが、他人には迷惑を与へる事が多い。使役者の嫉妬・邪視が役霊の活動を促す。護法童子に名をつけたのが、乙護法である。伝教大師にも、性空上人にも、同名の護法があつた。性空から其甥比叡の皇慶に移つたのを乙若とも言うて居る。三井寺の尼護法は鬼子母神ともなつて居る。女の護法神だから言ふのだが、或は「乙」と同じく、其名であつたのかも知れぬ。若の名の「愛」と言ふのも、護法の名で、護或は若は其護法なることを示してゐると考へられぬでもない。愛護[#(ノ)]若を護法童子の変形とすれば、桃・麻の呪ひの意味は、徹底する様である。
此呪ひを志田義秀氏は叡山の不実柿《ミナラガキ》と関係あるものと観察して居られるやうだ。皇慶|甫《はじ》めて叡山に登つた時、水飲《ミヅノミ》・不実柿《ミナラガキ》などの地で「実のなるのにみなら柿とは如何。湯を呑むのに水飲とは如何」と言ふませた、併し子供らしいへりくつ[#「へりくつ」に傍線]問答を試みた、と言ふ話のある地で、皇慶の呪ひによつて、不実柿になつたとは見えぬ。
併し乙若が性空の手から移つて来た話を思ふと、数度の変形として、或は、愛護・皇慶の関係は、成り立つかも知れぬ。川村杳樹氏(実は柳田国男先生)が提供せられた沢山の難題問答(郷土研究四の七)の例の中、陸前赤沼長老阪で、西行に舌を捲かした松下童子が、山王権現の化身であつたと言ふ話も、多少根本の山王に痕跡のあつたものとすれば、まへの関係は一層深くなるのだが、数点の類似だけでは、愛護・皇慶の交渉はむつかしい。
継母雲居[#(ノ)]前は、合邦个辻の玉手御前の性格を既に胚胎してゐるので「女筆始」其他の様な純然たる悪玉でなく、寧、薄雪物語の様な艶書を書くあはれ知る女となつてゐる。中将姫・しんとく丸[#「しんとく丸」に傍線]の継母とは、類型を異にして、恋の遺恨といふ、新しい創造がまじつてゐる様である。
手白の猿は、後の創作類では、かなり重要な位置に居るけれども、説経には極めて軽い役に使はれてゐる。動物報恩説話の外には、山王のつかはしめ[#「つかはしめ」に傍線]となつた理由を見せたに止まつてゐる様である。かういふ動物が、此民譚に現れたのは、勿論日吉の猿部屋に関係があるので、手首ばかり白い猿を、神
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