に「四条河原の細工夫婦が志、たはたの介[#「たはたの介」に傍線]兄弟が情のほど、如何で忘れ申すべき。まんそうくち[#「まんそうくち」に傍線](公事)を許してたべ」とあつた。
そこで、雲井[#(ノ)]前は簀巻にして川に沈め、月小夜は引き廻しの末、いなせが淵[#「いなせが淵」に傍線]に投げ込んだ。かの滝に来て見ると、浮んで居た骸が沈んで見えない。祈りをあげると黒雲が北方に降りて、十六丈の大蛇が、愛護の死骸を背に乗せて現れた。清平が池に入ると、阿闍梨も、弟子共も、皆続いて身を投げる。穴生の姥も後悔して、身を投げる。たはたの介[#「たはたの介」に傍線]・手じろの猿[#「手じろの猿」に傍線]も、すべて空しくなつてしまふ。細工夫婦は、唐崎の松を愛護の形見《カタミ》として、其処から湖水に這入つた。其時死んだ者、上下百八人とある。
大僧正が聞いて、愛護を山王権現と斎うた。四月に申の日が二つあれば後の申、三つあれば中の申の日に、叡山から三千坊、三井寺から三千坊、中下坂本・へいつち[#「へいつち」に傍線](比叡辻か)村をはじめ、二十一个村の氏子たちが、船祭りをする(六段目)と言ふのである。
表紙の題簽に、
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ひよしさんわうまつり     天満
あいごの若
からさきのひとつ松のゆらい  八太夫
[#ここで字下げ、枠囲み終わり]
とあつて、宝永五年正月の、大伝馬町鱗形屋の出版である。説経が江戸に大いに行はれて、八太夫座の勢力が張つて後の発刊である。此古浄瑠璃には、必若干の脚色と誇張とが、伝説の上に加へられてゐる事は期せなければならぬ。

     二

近江輿地誌略巻十七に数へた愛護[#(ノ)]若伝説の重要な点は、
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継母の讒言(い)。若の出奔(ろ)。革細工の小次郎の情(は)。大道寺田畑之助の粟の飯(に)。帥[#(ノ)]阿闍梨に会ふ(ほ)。桃及び麻の件(へ)。手白の猿(と)。霧降の滝の身投げ(ち)。小次郎は唐崎、田畑は膳所田畑の社、若は日吉の大宮と現じた(り)。
[#ここで字下げ終わり]
と言ふ個処である。其中説経には(は)を唯細工としてゐるだけで名は伝へぬ。(に)の大道寺の姓も見えぬ。(ほ)の帥[#(ノ)]阿闍梨の件は、会ひに行つた、といふ処を略した言ひ方と見るべきである。(ち)の霧降はきりう即飛龍の滝の事である。(り)の小次郎・田畑之
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