情の※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]《ヤ》き栗・ゆで栗を傍《カタ》山の岨《そへ》に埋めて、わが身栄ゆるものならば、此栗生え出る様に、とうけひ[#「うけひ」に傍線]給うたら、栗が生え出した。朝廷へ献る田原の栗は、即其なごりで、其時の痕が微かに残つて居る。天皇は其から志摩に出、美濃に奔られて、墨股《スノマタ》川で、不破明神の化身なる布洗ひ女に救はれ給うた(宇治拾遺)。
日吉山王の舟祭りに、膳所に渡御なると、粟の飯を献ることは名高い話であるが、其由来を此民譚では、若に粟飯を与へた田畑之助が、粟津の人であつた為、其が為来《シキタ》りになつたのだとも言ふ。処が、此が今《モ》一つ、田中明神なる恒世の話の変形である上に、此膳所田中[#(ノ)]社は、一名田畑の社として、田畑之助を祀つた(輿地誌略)ものと言ひ、又天武流離の節同様に、粟津の里人が献つたのだ(輿地誌略)との伝へもある。
思ふに、山城綴喜郡も田原迄入り込むと、近江の栗太郡に接してゐるから、田原栗の伝説が、瀬田川を溯つて近江へ入つたものか、又、田原(粟津)志摩とさすらひ[#「さすらひ」に傍線]の道筋の譚として説いて居たのか、いづれかであらう。田原栗の話が愛護民譚に関係の深いことは、貴人さすらひ[#「貴人さすらひ」に傍線]以外に、うけひ[#「うけひ」に傍線]の一条を、若の方では松のうけひ[#「松のうけひ」に傍線]・桃麻の呪ひ[#「桃麻の呪ひ」に傍線]の両方に分けてゐると言ふ点だけでなく、全体此話の主要人物なる左衛門・田畑之助の姓の荒木・大道寺と言ふのが、偶然に出来た名前とは思はれぬ事である。天武に栗を献つた人が、田畑之助と言ふ名であつたと仮定しても、大道寺は依然決着せぬ。
此処に伊勢新九郎長氏の種姓《スジヤウ》調べが、一道の光明を与へる。長氏の本貫は、大和とも宇治とも言ふ。其祖盛継は「天性細工に妙を得。其頃大坪道禅弟子として、鞍鐙の妙工を相伝す。伊勢守の家、是より此細工を専らとす」るやうになつたのであるが、長氏浪人の後、東国下向に伴うた腹心の者に、山中・多田・荒川・佐竹及び荒木兵庫頭・大道寺太郎の六浪士が(北条五代記)ある。而も荒木・大道寺共に、田原郷の地名である。
天武流離譚が、田原から江州へ推し出した事は想像出来る上に、此地名から見ても、宇治の田原を本貫に持つたとも考へられる後北条氏が、馬具細工の家筋であつたと言
前へ 次へ
全18ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング