若手の神に事《つか》へ、ある時は択ばれて神の代役を務める模様は、古代に溯る程〔ここで原稿が一部欠落〕陰陽門から退出する事になつて居た。此は、尊者とおなじ者で、饗宴に臨まぬだけである。中臣斎部以下の神職官人は、まれびと[#「まれびと」に傍線]の一行に扮して居たのが、時代を経て木地のまゝの官人と考へられる様になつて居たのである。此官人一行は、神群行の形を見せて居るもので、一方単独に来り臨むまれびと[#「まれびと」に傍線]もあり、戸におとづれて帰るもあり、屋内に入つて馳走を受けた上に、一夜は泊つてゆくのもあつた。色々な神が度々に来たとも思はれるし、又地方の違ひで、さうした多様のまれびと[#「まれびと」に傍線]があつたと見えるのだとも考へられる。播磨国賀毛郡河内[#(ノ)]里では、苗代に草を敷かずに苗をおろした為来りを、神群行に繋げて説いてゐる。昔|住《すみ》[#(ノ)]吉《え》の神上陸の際、従神《トモガミ》が刈り草を解き散して座を設けた。草主が大神に訴へると、其では、汝の田は草を敷くには及ばぬ様にしてやらうと判《コトワ》らせられたからと言ふ伝への如き(播磨風土記)。斎宮の群行と称する、斎内親王の伊勢への発向も、路次の様子から見れば、神の群行を学んで居たのかと想像せられる。にゝぎの尊の五伴緒《イツトモノヲ》を連れて降られたと言ふのも、此群行である。群行にも、中心となる主神があつた事は、住吉神の物語で訣る。唯その主神が二体である事があり、単に二人連れで来る事がある。又、主神一人で来た場合もある。
二体である場合は、夫婦と見、多くは老人と考へて来た様である。しひねつ[#「しひねつ」に傍線]彦とおとうかし[#「おとうかし」に傍線]とが、爺婆に扮して簑笠を着て、敵の中を通つて天香具山の土を盗んで来た(神武紀)と言ふ伝へは、実はまれびと[#「まれびと」に傍線]に扮した村々の事実を、大倭の象徴たる山の土を以てした呪咀に結びつけて、二人の姿が考へ出されたのである。(「ほ・うら」の章参照)。簑笠は、神に姿をやつす神聖な道具であつた。簑笠を着て屋内に居る事を、勅命で禁じた(天武紀)のは、屋うちで其を脱がぬまれびと[#「まれびと」に傍線]と間違へるからとも、まれびと[#「まれびと」に傍線]に対して弊風を認めて、其を制したものとも考へられるほかは、意味のない事である。老人夫婦のまれびと[#「まれ
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング