の木を一つ/\の盛り物に立てたのである。此作り物は、大嘗祭に牽いた「標《ヘウ》の山《ヤマ》」と同じ物で、屋外の「出《ダ》し物《モノ》」を座敷にうつしただけである。折敷《ヲシキ》に台足のついた「三方」「四方」も、衝重《ツイカサネ》と称へた室町の頃には、格式を喧しく言うたもので、公卿以上でなくば許されなかつた。武家には折敷を据ゑる事になつて居た。此とても、古い程使用者の範囲が高くなり、穴の数なども問題になつて居る。其溯つたつまりは、饗宴の正客のみに据ゑた懸盤《カケバン》の一種と思はれる。元来、食ひ物を盛る器に足のあるのは、其にすわる人の尊重な事を示すのであつた。前期王朝までは、「つくゑ」と言ふ語で表し、後期王朝に入つて、台盤と言ふ語も出来て、一人用から多人数用の物までも含んで居る。身分にも制限がない様であるが、かうした机案の上に食ひ物を置く事を、「たつ」又は「たて献《マツ》る」と言ふのが、少なくとも奈良の世までの用語例である。さうすると、「つくゑ」に立てゝ(机を竪て、その上に据ゑると言ふ表現を固定させたものであらう。高く机に置くから、竪てると感じたのではあるまい。)薦められる人は、ある種の貴人或は、ある時に限つて拝礼を受ける資格ある人でなくてはならぬ。
而も三方類は言ふまでもないが、島台を据ゑて神の在る時の飾りとする地方がまだある。三河設楽郡辺では、正月の歳徳神を迎へる為に、年棚の下に置く相である(早川孝太郎氏の話)。洲浜が島台になつて、原義の知れなくなつて久しい年月に、尚忘れないで古意に従つて居る処もあるのである。神迎への標《ヘウ》の山《ヤマ》なのである。
一体|歳徳神《トシトクジン》とも年神《トシガミ》とも言はれる正月の神は、今も迎へ祭る地方が多い。現に其信仰の生きて居るのもあり、唯生活の古典となりきつたのもある。童謡にも、「正月さんは、どこまで御座る。何々山の下まで」と言ふ様式を具へて居るものが、広く分布して居る。此は年神迎への文言なのである。門松も実は、此神の為の標の山である。王朝末には、行幸御幸に、御通路の京の町人が松を林の如く立て陳ねた事のあるのも、天子・上皇を「まれびと」を遇する法で迎へたのである。稀には、門松も立てず、年神も迎へぬ家筋や、村がある。此にも村の生活の古義は蔵せられてゐるのである。
宮廷生活に親しんだ後期王朝の公卿の間で行はれた種々の説明のな
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