後に、そらのぼり[#「そらのぼり」に傍線]を立てゝ、陣備へをしたなすみ[#「なすみ」に傍線]松合戦の記録(大友興廃記)があるから、空への上り[#「空への上り」に傍線]等いふ、考へ落ちめいた事を、証拠に立てようとする人もあるかも知れぬ。併し遺憾な事には、此頃の幟が、今の幟と似た為立ての物なら「蝉口」に構へた車の力で、引きのぼす筈はない。さすれば、幟だけが「上り」と言ふ名を負ふ、特別の理由はなくなる。思ふに「上り」を語原と主張する為には、五月幟風の吹《フ》き貫《ヌ》き・吹き流しの類を「のぼり」と言うた確かな証拠が見出されてから、復《マタ》の御相談である。今では、既に亡びて了うた武家頃のある地方の方言であつたのだらう、としか思案がつかぬのである。

     二 まとい[#「まとい」に傍線]の意義

おなじ様な事は、まとい[#「まとい」に傍線]の上にもある。火消しのまとい[#「まとい」に傍線]ばかりを知つた人は、とかく纏《マトヒ》の字を書くものと信じて居られようが、既に「三才図会」あたりにも、※[#「巾+正」、219−16]幟・纏幟・円居などゝ宛てゝ、正字を知らずと言うてゐる。併し、一応誰しも思ひつく的《マト》の方面から、探りをおろして見る必要があらう。
的《マト》と言ふ語は、いくは[#「いくは」に傍線]などゝは違うて、古くは独り立ちするよりも、熟語となつて表現能力が全う出来た様である。又、近代でも、必しもまとお[#「まとお」に傍線]と言ふ形を、長音化する方言的のもの、と言ひきつても了はれぬ様である。尠くとも、的・的居《マトヰ》は一つで、其的居の筋を引いた物が、戦場に持ち出したまとい[#「まとい」に傍線]である、と言ふ仮説だけは立ち相である。けれども、纏屋次郎左衛門から、六十四組の町火消しに供給した的と謂はゞ言はるべき、形の上の要素を多く具へた、馬簾《バレン》つき、白塗り多面体の印をつけた、新しい物を考へに置いてかゝる事だけは、控へねばならぬ。
徳川氏が天下をとつた時分が、まとい[#「まとい」に傍線]の衰へ初めと考へても、大した間違ひは無さ相である。「武器短歌図考」を見ると、だし[#「だし」に傍線](竿頭の飾り)に切裂き・小馬簾をつけ、竿止め[#「竿止め」に傍線]に菊綴ぢ風に見える梵天様の物をつけたのが円居で、蝉口に吹き流しをつけたのを馬印《ウマジルシ》としてゐるが、事実
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