へは冬祓へから岐れて、遅れて発生した為、冬祓への条件を具へなかつた。ところが、冬祓へを形式視して、夏祓へを主とする事が時代を逐うて甚しくなつた。冬の祓へに行はれた神楽が、別の季の神事に分裂して行く。其と共に、神楽の一方の起原になつてゐる石清水八幡の仲秋の行事の楽舞を、夏祓へにとり越して、学んだ形があるのだ。
八月十五日に行ふ男山の放生会《ハウジヤウヱ》は、禊ぎの式の習合せられたものであつた。其神楽を、夙くから行はれてゐた夏祓への行事にとりこむのは、自然な行き方である。まつり[#「まつり」に傍線]と神遊び・神楽との関係から、夏祓へは夏祭りと称せられる様になつた。陰陽道の勢力が、さうした形に信仰を移したのである。奈良末から平安初めに亘つて荒れた五所の御霊を、抑へるものとして、行疫・凶荒の神と謂はれるすさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]を憑《タノ》むやうになり、而も此に、本縁づける為、天部神の梵名を称へる事にして、牛頭天王、地方によつては、武塔(答。本字)天神などゝ言うた。
日本の陰陽道の、殊に、地方の方術者は、学問としては、此を仏典として修めた傾向があつて、特に、経典の中にも、天部に関
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