十年頃までは、西成郡勝間村・東成郡田辺村などには、ひげこ[#「ひげこ」に傍線]のだいがく[#「だいがく」に傍線]を舁いで居るのを見かけたものである。
一体ひげこ[#「ひげこ」に傍線]は日の子の音転で、太陽神の姿を模したのだ、と老人たちは伝へて居るが、恐らくは、竪棒の上に、髯籠《ヒゲコ》の飾りをとりつけて居たのが、段々意匠化せられて出来た(髯籠の話参照)ものか。今日なほ紀州粉河の祭礼の屋台には、髯籠を高くとりつける。のみならず、国旗の尖にもつけ、五月幟の頂にもつける事がある。竿頭を繖形に殺ぎ竹を垂して、紙花をつける事は、到る処の神事や葬式の立て物にある事である。
但し今一つ考へに入れて置かねばならぬのは、傘鉾《カサボコ》の形式で、此は竿と笠とだし[#「だし」に傍線]との三つの要素で出来て居る事である。一体傘鉾は、力持ちが手で捧げながら練つたものであるが、此が非常に発達した場合には、※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]に樹てゝ舁くか、車に乗せて曳き歩くより外に道はなくなる訣である。
だいがく[#「だいがく」に傍線]の成立した形は、前者である。尚老人たちは、だいがく[#「だいがく」に傍線]に数多の提灯をとりつける様になつた起りを、ある年の住吉祭り(大阪中の祭礼として、夏祭りの一番終りに行はれる)に、住吉まで出向いただいがく[#「だいがく」に傍線]が、帰り途になつて日の暮れた為、臨時に緯《ヌキ》棒を括りつけて、其に提灯を列ねた時からだと説いて居る。
其はともかく、住吉祭りといふ事が、だいがく[#「だいがく」に傍線]と住吉踊りの傘鉾との関係を見せて居る様に思はれる。天幕に一重のも二重のもある点、竿頭にだし[#「だし」に傍線]のついてゐる点、すべてかの踊りの傘鉾を、※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]の上に竪てた物としか思はれぬ。熊野田《クマンダ》のがく[#「がく」に傍線]に近いだいがく[#「だいがく」に傍線]のひげこ[#「ひげこ」に傍線]が、形似の著しい傘鉾の形式をとり入れるとすれば、まづひげこ[#「ひげこ」に傍線]を天幕にすべきは当然である。其傘鉾の天幕も、元はひげこ[#「ひげこ」に傍線]であつた事は疑ひもない事実である。
だいがく[#「だいがく」に傍線]のひげこ[#「ひげこ」に傍線]は二重の上の方が大きくて、直径一丈で、
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