し給へ」とある。逆に書かれてゐるので、「日本国の為に忠実ならずは、目のあたり日西に出で、ありなれ河逆に流れむ。されど若し向後懈怠ある時は、わが誓言を保証し給ふ神祇罰を降し給ふも異存なし」とあつたはずなのである。
齶田《アキタ》の蝦夷がした「私等の持つて居ます弓矢は、官軍の為のものでなく、嗜きな野獣の肉を狩り獲る為です。若し、官軍の為に、弓矢を用意したら、齶田の浦の神が知りませう。……」と誓うたのや、「思はぬを思ふと言はゞ、真鳥栖む雲梯《ウナテ》の杜《モリ》の神し断《シ》るらむ」(万葉集巻十二、三一〇〇)とあるのなども一つで、神罰を附けて語の偽りなきを証するのは、やはり古意ではなかつた。
発想法が後世風になつて居ても、新羅王の誓言の「天神地祇共に罪し給へ」とあるのは、「罪し給はむ」と言はぬ処に古意がある。「君をおきて、他心《アダシゴヽロ》をわが持たば、末の松山、波も越えなむ」(古今東歌)。此歌常識風に漠然と、波の越える山だからと感じもし、解釈もせられて、末の松山浪越し峠など言ふ地名もあり、地質の上から波の痕跡ある陸前海岸の山を、其と定めたりして居るのは、とんだ話である。其でなくとも単に、「末の松山を浪の越えざる如く」と比喩に解してゐる説もある。だが、此は恋の誓ひの古い形で、波の被《カブ》さりさうもない末の松山を誓ひに立てゝ来た処に意味があるのである。而も越えなむ[#「越えなむ」は罫囲み]と言ふ語も、「誓ひに反いたら波が越えるだらう」と将来に対する想像的な約束ではない。此場合のなむ[#「なむ」は罫囲み]は、動詞第一変化につく助辞で、希望の意を示すものだ。だらう[#「だらう」に傍線]を表す第二変化につく助動詞ではない。「越えてくれ」「越えてほしい」と言つた意で、従つて上の「我が持たば」も将来持たばでなく、「持てらば」の時間省略で、「持つてるものなら」と言ふ事になる。「この誓言本心を偽つて居るものなら、この陶《スヱ》の地の松山其を、波が越えてみせてくれ」と言ふ意である。かうした処から、比喩を立てゝ「あの物のあゝしてある限りは、言は違へまい」と言ふ新羅王風のになるか、「あの物がわたしの心のしるしだ」と言つた風の言ひ方になる。「鎌倉のみこしがさきの岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ」(万葉巻十四、三三六五)は、単なる修飾ばかりでなく、物を誓ひに立てゝ、心の比喩にする風の変形である。
前へ
次へ
全16ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング