んだ事も推察出来る。
古代生活で、「まれ人」とおなじ尊さの人を迎へる事の出来たのは、「新室ほがひ」の時であつた。其で、神と言ふ意味を離れて、まれびと[#「まれびと」に傍線]が明らかに「人」の意識を持つ事になつた。だから人なるまれびと[#「まれびと」に傍線]に対する家々の態度は、やはり神であつた時代の風俗を長く改めなかつた。今もその姿を残してゐる。まれびと[#「まれびと」に傍線]には、その家の処女か其がなくば、主婦を出して、滞在中は賓客の妻とせねばならなかつた。王朝を通じて都の官人が地方人の妻女に対して理不尽と見える行ひをして居たのは、地方人が都の貴人の種《シユ》を家の血の中に容れようとしたからと解するのは、結果から言ふ事である。今も其遺風を持ち伝へてゐる島々はある。鳴門中将の二様の伝へや、源氏物語中、川の宿りの条なども、後世から見て単に貴顕の威に任せたものと見るのは、真の理会ではない。
あるじ[#「あるじ」は罫囲み]と言ふ語も、実はまれびと[#「まれびと」に傍線]の対語としてあるので、唯の主人と言ふことではない。主人として馳走をするから、饗応をあるじまうけ[#「あるじまうけ」に傍線]と言ひ略して、あるじ[#「あるじ」に傍線]と言ふと解して来たのもわるかつた。今少し広く喰ひ物から喰ひ物の進め主までを含めて言ふ語であつたらうと思ふ。はつきり知られるのは、珍客を迎へたときに限つて言ふべき語で、家主《イヘヌシ》など言ふ平常の用語例とは別な事である。裳着の条の註に引いた「尊者の大臣」は実は「まれびと」の宮廷風の訳語で、近代の正客に当るが、座中の最尊者と言ふ単純な意義ではない。宴会に客の中から尊者を選ぶのではなく、予め尊者を定めて其尊者の為に宴を設けると言ふ形をとるのが正しいのである。大臣大饗に尊者として招かれる左大臣などは、まれびと[#「まれびと」に傍線]の沿革の中に際だつて目につく事実である。此も身祝ひにまれびとを招じた風が、宮廷生活の上に新任披露の先輩招待式の様な形をとつたのである。此時の尊者なる左大臣の物の喰ひ様にはやかましい方式が出来た様であるが、「まれびと」としての仮装神の喰ひ方が自ら固定して来たものと見る事も出来る。
近代婚礼の座にばかり出る様になつた島台は、賓客にも出す洲浜《スハマ》・蓬莱台で、宴席の飾りの様に見える。けれども、正式には神の居る座敷に据ゑる物で、
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