日の様な緩くなかつた江戸期の学者すら、まれびと[#「まれびと」に傍線]を唯珍客と見て、一種の誇張修飾と感じて居たのが、現代の人々の言語情調を鈍らしたのである。
まれ[#「まれ」に傍線]は珍重尊貴の義のうづ[#「うづ」は罫囲み]よりも、更に数量時の少い事を示す語である。「唯一」「孤独」などの用語例にはいる様である。「年にまれなる人も待ちけり」など言ふ表現で見ると、まれびと[#「まれびと」に傍線]の用法は弛んでゐる様に見えるが、尚「年にまれなり」と言ふ概念には、近代人には起り易くないまれ[#「まれ」に傍線]を尊重する心持ちが見える。
軽薄者流を以てある点自任した作者自身、やつぱり「年にまれなる訪問」と言ふ民間伝承式の考へ方を、頓才問答の間に現してゐるのは、民族記憶の力でなければならぬ。おなじ恋愛味は持つて居ても、「わいへん」の方は空想である。民謡に歓ばれる誇張と架空と無雑作と包まれた性欲とが、ある自信ある期待を謳ひ上げて居る。此は物語で養はれた考へから、稀にはあり得る事と思うてゐた為であらう。まれびと[#「まれびと」に傍線]の用語例にぴつたりはまるのは、かうして獲た壻ざねでなければならぬ。私は此も本義に於ける「まれ人」を待つ心の一変形だと考へてゐる。
年にまれなおとづれ人を待ち得ぬ我々は、「庭にも やどにも、珠敷かましを」を単なる追従口と看過し易い。此は誇張でもない。支那風模倣でもない。昔の「まれびと」に対しての考へ方を、子孫の代の珍客に移したのに過ぎぬのである。
まれびと[#「まれびと」は罫囲み]とは何か。神である。時を定めて来り臨む大神である。(大空から)或は海のあなたから、ある村に限つて富みと齢《ヨハヒ》とその他若干の幸福とを齎して来るものと、その村々の人々が信じてゐた神の事なのである。此神は、空想に止らなかつた。古代の人々は、屋の戸を神の押《オソ》ぶるおとづれと聞いた。おとづる[#「おとづる」は罫囲み]なる動詞が訪問の意を持つ事になつたのは、本義音を立てるが、戸の音にのみ聯想が偏倚したからの事で、神の「ほと/\」と叩いて来臨を示した処から出たものと思ふ。戸を叩く事について深い信仰と、聯想とを持つて来た民間生活からおしてさう信じる。宮廷に於いてさへ、神来臨して門を叩く事実は、毎年くり返されて居た。
其神の常在る国を、大空に観じては高天《タカマ》[#(个)]原《ハラ
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