「夷三郎殿」などゝ言はれた「えびす」神は、実は常世神の異教視せられた名であつた。異教から稀にのみ来る恐るべき神という属性は、東人《アヅマド》その他を表す語なる「えびす」に当てはまつてゐた。「あらえびす」の「荒」の要素が忘られて来て、常住笑みさかえる愛敬《アイギヤウ》の神となつたのは、今一度常世神の昔に返つた訣なのである。「えびす」神信仰の内容を分解すれば、すぐ知れる事である。蛭子でもあり、少彦名でもあり、乃至は大国主・事代主の要素をも備へてゐて、而も其だけでは、説明のしきれないものがある。其は「まれびと」として、「あら」と言ふ修飾語を冠るに適当な神として、また単に漁業の神に限らないと言ふ点等に於いてゞある。
近世の庶民生活に、正月に家々に臨む年神を「若えびす」として居るものが多く、又年神を別に祀りながら尚|旦《あした》「若えびす」を迎へる風のある如きは、常世神の異訳せられた名称なる事を明らかにしてゐる。其上地方によつて、今も神主《シンシユ》なく、何神とも知れず、唯古来からの伝承として、ある無名の神の為と言ふ様な心持ちを表す場合には、「えびす」を以て代表させる風がある様である。此も日本神学以前の神で、その系統外に逸した神なる事を示してゐる。
常世に対して「根の国底の国」を考へ、其を地下那落にあるものと見る事になつたのは、葬法の変化からも来てゐるが、主としては常世と区別する為であり、又常世を浄化して天上に移す様になつてからの事である。醇化を遂げた神の住みかなる天上は、些《いささか》の精霊臭をもまじへなかつた。そこには「死の島」の思想は印象を止めなかつた。天上を考へ出す順序としては、柳田国男先生の常に説かれる水平線の彼方を空とし、海から来る神をも天上から降つたものと見るとせられるのと反対に、海のあなたの存在の考へが、雲居の方、即天つ空の地を想定する事になつたと思ふ。尤、此には、天を以て神の常在地とする民族の考へ方の影響の交つてゐる事は勿論である。さうなつても、唯「日のみ子」に限つては、「死の島」を高天[#(个)]原に持つ事が出来たのである。
私の考へでは、高天[#(个)]原と常世とを持つ民族の混淆もあらうが、主としては海岸から広つた民族として常世をまづ考へてゐたものとし、其が高天[#(个)]原を案出する事になつたのだとするのである。
常世は富み・齢・恋の国であると共に、魂
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