ず違うてゐるのは、時間観念に彼此両土に相違のない事である。常世の国と言はれた海のあなたの国の中には、わたつみ[#「わたつみ」に傍線]の国を容れなかつた時代があるのかとも考へる。けれども富みの方では、大いに常世らしい様子を備へてゐる。海驢《ミチ》の皮を重ねて居る王宮の様などに、憧れ心地が仄めいて居る。歓楽の国に居て、大き吐息《ナゲキ》一つしたと言ふのは、浦島子にもある形で、実在を信じた万葉人は、「おぞや此君」と羨み嗤ひを洩すのであらう。ほをりの―みこと[#「ほをりの―みこと」に傍線]の帰りしなに、わたつみ[#「わたつみ」に傍線]の神の訓へた呪言「此針や、おぼち・すゝち・まぢゝ・うるち」と言ふのは、おぼ[#「おぼ」に傍線]は茫漠・鬱屈の意の語根だから此鈎でつりあげる物は、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍線]だと言ふ意と思はれる。うる[#「うる」に傍線]は愚かの語根だから、鈍をつり出す鈎だと言ふ説が当る。まぢゝ[#「まぢゝ」に傍線]のまぢ[#「まぢ」に傍線]はまづしの語根だから、日本紀の本註にもある通り、貧窮之本になる鈎だと説いてよい。(すゝ[#「すゝ」に傍線]はまだ合点が行かぬ)する事なす事、手違ひになつて、物に不足する様になるとの呪咀を鈎にこめる事を教へたのである。貧窮を人に与へる事の出来る詞を授ける王の居る土地だから、富みに就いても如意の国土と考へる事は出来る。皇極天皇の朝、秦[#(ノ)]川勝が世人から謳はれた「神とも神と聞え来る常世の神」を懲罰した事件も、本体は桑の木の虫に過ぎないものに関して居た。此神も突発的に駿河に現れてゐるが、やはり海のあなたから渡来したものと信じられて居たのであらう。其はどうでも、常世の神の神たる富みを、農桑の上に与へた神であつたのである。
一体よ[#「よ」は罫囲み]と言ふ語は、古くは穀物或は米を斥《サ》したものと思はれる。後には米の稔りを言ふ様になつた。とし[#「とし」は罫囲み]といふ語が米又は穀物の義から出て年《トシ》を表す事になつたと見る方が、正しい様であるとおなじく、同義語なる「よ」が、齢《ヨ》・世《ヨ》など言ふ義を分化したものと見られる。更に「よ」と言ふ形に、「性欲」「性関係」と言ふ義を持つたものがある。此は別殊の語原から出てゐるのか知れないが、多少関係があるから挙げる。
常世を齢の長い意に使うてゐる例は沢山にある。私の考へでは、常世
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