婚手段と言ふ風に解してゐる様である。勿論かうした意義も、一方に分化してゐたものと考へられる。日本の歌垣も支那の踏歌も、源流は一つなる農産呪術で、地霊を孕ませる為の祭事である。其が後には、人の行為に農神を感染させようとするものと言ふ風に考へて来た。併し元々、新に来た「まれびと」と穀物の神との間の誓言の「言ひかけ」に始まり、更に「とつぎ」を行うて、効果を確実ならせようとするのである。群衆客神と群衆巫女との様な形になつて来てはゐるが、実は根本思想はそこにあつたのである。
「まれびと」の「ことゝひ」に対して、答へる形が段々様式化して、歌垣の「かけあひ」の歌となる。後には其も、文句がきまつて来て、「かけあひ」としての興味と、原義を失うた地方もある。筑波の※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌会《カガヒ》の如きはさうしたものになつてゐたらしい。而も他の方では、依然即興の歌をかけあうて居たと見られる。歌垣・※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌会・小集会《ヲヅメ》皆初春の行事であつたのが、今一度秋冬の間に行ふ様にもなつた。感謝の意味から出たのであらう。
「まれびと」の「ことゝひ」の中、殊に注意を惹き、興味多かつたものが、原始歌垣の「かけあひ」である処から、「ことゝふ」と言ふ語の用途が前に述べた様に変つて行つたのであるが、普通の呪詞の誤解から出た用語例から見れば、正しいものと言ふ事が出来る。かうして、神と精霊と言ふ関係から神と巫女と言つた関係にあつた邑落の男女が、本来の意義を忘却して、唯春の祭りに於ける感染の呪術と言つた考へから、更に幾分の遊戯分子を容れて、娯しい「かけあひ」の歌、相舞ひのをどりに、容色の美しさ、頓作の才を求められる様になるのである。併し、歌垣の場に於ける頓作問答が、恋愛の贈答として、価値を備へて来るのは、やはり始めの時代にない事である。本流としての呪言のある発達をなした後、傍流から急に伸びて来て、日本文学を促進したものと思はれる。
歌垣の場に於ける唱和が、神と精霊との「ことゝひ」の文句を、ある程度まで形式化し、固定せしめたものであらう。さうして其形が、旋頭《セドウ》歌であり、その片方なのが片哥である。併し、此が歌垣によつて出来たものとばかりは言はれまい。かうした簡単な形の問答を交したのが、一方は次第に伸び、一方は固定して、恋愛贈答歌の姿をとるに到つたのである。(「あきつ神」の論参照)
草木の「ことゝひ」を成語としてくり返す事になつたのは、「新室ほぎ」から起る。其土地が如何なる神・精霊の占める所なるか知れぬ処から、其地にある庶物の精霊に退去を頼む時に、言ふ定まりになつて居た語らしい。だから根本思想は地を占める場合に、地霊を逐ふところにあるので、新に村を構える様な場合にも之を行うてゐたものと見られる。此地は昔、我等の神が「ことゝひ」によつて、おん躬らから譲らしめられた土地である。早々退散して禍ひする事なかれと言ふ様な考へ方が、とゞのつまり、建て物の言ほぎに、「ことゝひし磐ね・木ねだち・草のかき葉をも言止《コトヤ》めて」など言ふ表現法を採る事になり、記紀に地上の庶物|各《おのおの》勢を得た様の描写と形を変へて来た理由である。未開拓地の人居の安からぬ模様は、前の麻多智の伝へでもわかるが、揖保郡|林田里伊勢野《ハヤシダノサトイセヌ》の起原で見ても知れる。道教の影響が帰化人から及ぶ以前に、村や家と庶物の精霊との関係を切実に考へてゐたのである。
「まれびと」にことゝはれ[#「ことゝはれ」に傍点]た庶物の精霊は、やはり答へるのが原則であつた。語を以て答へない時は、「ほ」を以て応じた。此は「ほ」が庶物の精霊の上にも、行はれるものと解したのである。此「ことゝひ」と「ほ」とは並行して、精霊により、又おなじ精霊でも時によつて、どちらかの方便をとつてゐる。
村々の生活が段々に進んで来るに連れて、今までの定期に臨み来る常世神以外に偶然に新来する神々が増しても来、村々の精霊を握つてゐる専任神職とも言ふ位置が確立して来る。其人の自覚によつて新しく尊い神々が殖えて行つた。
底本:「折口信夫全集 4」中央公論社
1995(平成7)年5月10日初版発行
※底本の題名の下には、「草稿」の表記があります。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年10月31日作成
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