、お金の工面に帰った母親が、金の工面ができず、進退きわまって池に身を投げたものに違いないと言いだした。
 君子は母の死骸を見たように思うし、それは旅をするようになってから見た池のある風景に、母の死を結びつけた夢ではなかったかと思えたりする。祖母の話にしたところで、それを全部覚えているわけではなく、きれぎれに、ちょうど夢を思い出すようにふいと頭に浮かぶ、その一片ずつを想像でつなぎ合わせてできあがった夢物語に等しいものではあるまいか。
 しかし人形は今もなお手離さずに持っている。この人形がある限り母の死んだ前後の事情がまるきり夢ではあるまい。だが君子には人形を抱えて遠いところから、知らぬ伯父さんに送られて祖母のところに帰ってきた記憶がすこしもないのである。
 祖母は君子が八歳のとき死んだ。
 それからの君子は、掘っ立て小屋を捨て、町に出て子守奉公をするようになったが、君子は子守がいやでしかたなかった。ある日|空身《からみ》でなんの当てもなく町はずれに出てみると、そこの空地に夫婦者らしい旅芸人が人を集めて手品を見せていた。女の方は商売道具の傍に坐って太鼓を叩き、その夫らしい男は前に出て玉子を呑《の》んだり、針を呑んで見せたりする。ひとわたり芸がすむと女が立って来てはげたお盆をつきだし一銭二銭と金を集めてまわった。やがて人も散ってあとには芸人二人と君子が残ったのであるが、君子はいつまでもそこを去らなかった。旅芸人が商売道具を小さな車に乗せ身仕舞いにかかっても君子はなおそこを離れようとしなかった。こうして君子はついにこの旅芸人に連れられて旅から旅を流れ渡るようになった。
 旅芸人は時候が暖かになってくると北に向かい、涼しくなってくると南に向かって旅をした。それも去年は東海道を通ったから今年は中仙道《なかせんどう》というように毎年巡業の道を変えた。君子は旅の大道芸人の稼業が決して好きではなかった。ことにだんだん年頃になるにしたがって、この稼業がいやになったが、稼業よりもなおいやなことが一つあった。それは今まで親のように言っている親方が酒飲みで乱暴者で、それよりもなおがまんできぬことは、いやらしいことを仕向けることである。十年もこうして辛抱してきたのは、親方のおかみさんがとても親切に、身をもってかばってくれたためでもあるが、それより夢としては諦《あきら》めかねる母の最後の池を捜しあてて、前後の事情をはっきりと知りたいためであった。
 今年も涼しい風が立ちはじめると君子達は南にむけて旅をつづけた。ある日、初日の商売を終わったその夜、その日の稼ぎが多かったためか、親方はいつもより酒を過ごして、またしても君子に挑《いど》みかかった。君子がはげしく拒《こば》むと酒乱の親方は、殺してやる、といって、出刃包丁を振りまわすという騒ぎだった。その夜あまり度々のことに辛抱しかねたか、親方のおかみさんはついに君子を逃がしてくれた。それも旅で知り合った女《ひと》が堅気《かたぎ》になって、五里ばかり離れた町に住んでいるからと言って、添書《てんしょ》をしてくれた。
 君子は、こればかりは手離されずに持っている風呂敷包みの人形をさげて暗い夜道を歩いた。こうして君子は十年という長い間の旅芸人から足を洗うことができた。
 親方のおかみさんが添書してくれた家にたどり着いた翌日、人気のないところで君子は風呂敷包みにしていた人形をそっと出して見た。それはながい間風呂敷に包んでいたので、どこか損じたところでもありはせぬかと案じたためだった。幸いに人形はどこも損じてはいなかったが、着物はとてもひどく着くずれがしていた。君子は着物を着せ直してやるつもりで帯を解いて着物を脱がした。君子がこの人形を持ってから十二、三年になるが着物を脱がしたのはこの時が初めてである。祖母が死んでから子守奉公、それから一日二日とあわただしい旅芸人、今日の日まで君子には人形の衣裳を脱がして見るほど落ち着いた気持ちの時がなかったのである。
 人形を裸にして見た君子は、そこに不思議なものを発見した。人形の左の乳の上あたりに梅の花のような格好の模様が黒々と描かれてあった。それは決して最初からあった人形の傷ではない。あとから墨で書き入れたものであることが明らかだった。
 何気なく人形の背中を見ると、そこには『抱茗荷《だきみょうが》の説』と、書かれてある。もし君子の記憶に抱茗荷の紋がなかったら、なんのことか分からなかったに違いない。だが、なんのために、こんなものが書かれてあるのか、そしてそれが何を意味しているのか、いくら考えても君子には分からなかった。君子は、この不思議を、そっとそのまま人形の着物に包んでおくよりほかにしかたがなかった。
 君子は旅の十年間、知らぬ土地へ行くと、このあたりに湖のような大きな池はないかと尋ねることにきめていた。それはいうまでもなく夢のように記憶の底にある池の畔《ほとり》の森に囲まれた家を捜すためである。家の主人は一里ばかり離れたところに大きな池があると教えてくれた。そして、むかしこの町の庄屋に双生児《ふたご》があって非常に仲がわるく、兄弟が争った末についに弟は家に火を放《つ》けた。そのため町は焼土と化して全滅した。それから双生児は敵《かたき》の生まれかわりだといって町の人達は極度に忌《い》みきらった。ところが庄屋のうちにまた双生児が生まれた。双生児を産んだ庄屋の嫁は、それを苦にして双生児を抱いたまま、池に身を投げて死んだ。その池は今でも『ふた子池』とよばれている。そして、その池の周囲の畑にできる茗荷は二つずつ抱き合った形でできるという古くから伝わっている説を話してくれた。
 君子がふた子池のほとりにある豪家に女中としてやとわれてきたのは、それから間もないことであった。この家にやとわれてきてから君子の身体のどっかに潜んでいた記憶が一つ一つ浮き上がってきた。大名のお城のような大きな門や、玄関の脇につってある塗り駕寵、龍吐水の箱など、それはいつも事実が想像より醜いものであるように、ほこりにまみれて見るかげもなく損じてはいるが、夢のように君子の記憶の底に沈んでいるそれに違いはなかった。ことに抱茗荷の紋をちりばめた大名の乗るような黒塗りの駕籠を見上げたとき、深い靄《もや》が一度に晴れるように、抱茗荷の紋がはっきりと思い出せた。それは、門のなかにはいって行く母の姿を見送ったとき、母がかぶっていたお高祖頭巾の背中に垂れたところに染め出されていた大きな紋であった。
 母の死骸が浮いていた、と記憶する池の畔《ほとり》へも行ってみた。そこには、みごとに花をつけた椿の枝が水の上におおいかぶさり、落ちた椿の花がすこし赤茶気た、しかし琥珀《こはく》をとかしたように澄んでいる浅い水底に沈んでいた。まだ水に浮いている花もあった。じつと水を見ているとお高祖頭巾をかぶったままの母の美しい死骸が、底にすきとおって見えるようだった。
 こんな浅いところで死ねるだろうかしら、ふと君子は思った。たった一人の子である自分を門の外に待たしたまま母は自殺することができただろうか、お高祖頭巾の遍路が金のお札を飲まそうとしたのは父ではなく母であったはずだ。母は殺されたのではないか――母は殺されたのだ――そう思うと今まで夢のように思っていたいろいろの謎が少しずつ解けるように思われる。中風で口も、身体も自由が利かず寝たままの老女の頭髪は、よほど薄くはなっているが黒い毛の一本もまざらぬ白髪ではないか。下男の父は既に死んだということではあるが、それが十年前送ってきた老人に違いない。
 かりに、中風で寝ている白髪の老婆と、未亡人《おくさん》を、そのときの二人の女遍路として考えてみれば、二人は母が金のお札を飲んで死んだものと思っていたに違いない。それが数年を経てひょっこり現われた。殺されねばならなかったと想像することは決して無理ではない。未亡人といえば君子に不思議でならないことがある。それは君子が幼な心に覚えている母の面影とよく似ていることだ。母の殺された原因がここにあるのではないか。
 そう考えだした君子はこの謎を解くために苦しみとおしたが、結局これを解く鍵は人形より外にはないと思った。
 ある夜、ふけてから君子はそっと人形を出して見た。まず着物をはがし、襦袢から着物、帯にいたるまで丹念《たんねん》に調べて見たが、そこにはなんの不思議もなかった。背中に書いてある『抱茗荷《だきみょうが》の説』とは、結局|相剋《そうこく》する双生児の伝説に違いない。と、すぐ考えられたが、左の乳の上に描かれている梅の模様はなんの意味であるのか、君子には容易に解けぬ謎であった。考えあぐんだ末に、君子は『抱茗荷の説』と人形の背中に書いてあるのは、内容を現わす題名に違いない。だからこの人形のどこかにその内容が隠されているのではないか。この上は人形の内部よりほかに探すところはない。君子は思いきって人形の首を抜いて見た。果たしてそこに一枚のかきつけが隠されてあった。

 姉妹は、抱茗荷の説をそのまま、敵《かたき》どうしの双生児として生まれました。そして二人はいずれとも区別のつかぬほどよく似ていたのです。姉妹の母は姉妹にそれぞれ一つずつ人形を与えましたが、その人形を区別するために別々の衣裳をつけさせました。しかし人形を裸にしたときに区別がつかないので、一つの人形の左の乳の上に梅の模様をかきいれました。それは姉妹のそこに梅の花のような形をした痣《あざ》があったからです。姉妹は小さいときから仲がわるかったのですが、年頃になってからついに一人の男を争うようになりました。この争いは姉の勝利となり、姉はその男と結婚しましたが、二人が区別のつかぬほどよく似ているということが恐ろしい因縁で、男は妹の手にまた姉の手にというように、この醜い争いは繰り返されました。男が死んで互いに争う目標がなくなった後も、敵どうしの因縁をもって生まれた二人は莫大な財産を中心に争いをつづけましたが、今はもう争う必要がなくなりました。つまり、この人形が不要になったのです。母を失った代わりにこの人形だけでも与えておきましょう。

 日付もなければ署名もない。しかし人形の胸に描かれた梅の模様は、このかきつけを読んでいるうちに君子に分かってきた。それは君子の記憶の底に沈んでいた母の乳の上にもあった痣を思い出すことができたからである。しかし、この手紙のようなかきつけはさらに大きな疑問を君子に与えた。君子は手紙を手にしたまま深い考えに沈んだ。
 よほど夜がふけたらしく、あたりは死んだように静かである。ふと気がつくと、廊下に静かな、忍んでくるような足音がする。君子は急いでランプを吹き消した。あたりはうるしのように真っ暗な闇である。部屋ですみにうずくまり息をころしていると、できるだけ静かに忍びやかに歩いているらしい足音は、君子の部屋の前でとまったまま動かなくなった。やがて、幽霊が入ってくるときは、こうもあろうかと思われるほど静かに障子の開く音がした。君子は瞳を凝《こ》らし梟《ふくろう》のように目を見張ったが、それはほんとうの幽霊ででもあるのか、ただ闇のなかにぼんやりとおぼろな影が見えるだけで、それが何者であるのかすこしも分からなかった。忍んできたものは静かに君子の部屋に入った様子であったが、そのまままた動かなくなった。じりじりと後にさがった君子は蝙蝠《こうもり》のように壁に身をつけた。じっと見つめていると真っ暗な闇のなかにしゃぼん玉のような五色の泡がいくつもぷかりぷかりと湧きあがってくるように思った。君子は急いで瞬《またた》きをした。そのときである。なにに驚いたのか、忍びこんでいたものは急いで、しかし静かに障子を閉め、来たときとは反対の廊下に去って行った。そのとき君子は遠くの廊下に、やはり忍んで歩いているらしい別の足音を聞いた。
 こんなことはその夜が初めてではなかった。すでにこれで三度目である。そして不思議なことには三度とも遠い廊下に聞える別な足音で君子は救われた。君子が母の自殺に疑いを持ち、夢のような記憶をたどって
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